第9話:呪いを解きたい依頼人
その依頼人は、これまでの誰よりも「普通」に見えた。
どこにでもいるような、くたびれた安物のコートを着た、初老の男だ。彼は震える手で冷泉の前に座り、小さな紙包みを差し出した。中から出てきたのは、真っ黒に汚れ、原型を留めないほどに捻じ曲げられた一本の「銀の指輪」だった。
「……これを、解いてほしいんです。……呪いを、止めていただきたいんです」
冷泉が、ピンセットでその指輪に触れた瞬間、パチリと青白い火花が散った。彼女は眉をひそめ、無言で指輪を四ツ谷の方へと差し出した。
「お断りします」
四ツ谷は、包帯に包まれた右腕を庇うようにして、即座に拒絶した。
「……うちは代行屋だ。呪いを撒くのが商売であって、消すのは門外漢だ。……それに、一度放たれた因果は、誰かが食い切るまで止まらない。逆流を止めるのは、動いている時速百キロのトラックを素手で止めるようなもんだ」
「そんな……っ、でも、このままじゃ、息子が死んでしまう!」
男は、床に額を擦り付けるようにして泣き叫んだ。
「私が馬鹿だったんです! 二十年前、あいつを……商売仇を呪ったんです。あいつは死にましたが、その報いが、今になって息子に来ている。……私の代わりに、息子が毎日、見えない何かに首を絞められているんです!」
九十九が、奥のケージをガタガタと鳴らしながら、忌々しそうに吐き捨てた。
「……二十年前の呪詛の残りカスかよ。ヴィンテージもいいとこだ。……四ツ谷、こいつはやばいぞ。執念が腐りきって、もはや一つの『生態系』になってやがる」
九十九の言う通りだった。
指輪の周囲には、黒いカビのような澱みが絶えず湧き出し、店内の什器に侵食を始めていた。四ツ谷の右半身の「冷え」が、これまで経験したことのないほど鋭く、針で刺すような激痛へと変わる。
「……解くのではありません」
冷泉が、事務的に告げた。
「その呪いを、四ツ谷さんが『吸い出す』んです。……依頼人様、お分かりですか? 呪いは消えません。誰かが代わりに受けるしかない。……四ツ谷さんが貴方の息子の代わりに、その二十年分の澱みを、その体に引き受けるということです」
「……あ、ああ……。お願いします、お願いします……!」
四ツ谷は、絶望的な沈黙の後、ゆっくりと左手で指輪を掴んだ。
「……商売に、ならんだろうが。……冷泉、追加料金だ。……俺の肉が削れる分の、特大のやつをな」
施工が始まった。
九十九は、店の中央に「身代わりの水槽」を四つ、四ツ谷を囲むように配置した。中には、これまでのドジョウよりも遥かに生命力の強い「大きな真鯉」が放たれている。
「四ツ谷、深呼吸しろ。……一度に吸い込もうとするな。肺が潰れるぞ」
四ツ谷が指輪を握り締め、念を「逆回転」させ始めた。
その瞬間、店内の空気が、真空になったかのように重く、苦しくなった。
ゴボッ、という嫌な音がした。
四ツ谷の右腕を巻く包帯から、黒い体液が噴水のように溢れ出す。
同時に、二十年分の「親子の呪い」が、指輪を通じて四ツ谷の神経へと流れ込んだ。
「あ、が……ああ、あああああ!」
四ツ谷の瞳が、白濁していく。
彼の脳内に流れ込んでくるのは、二十年前の、この依頼人の醜い嫉妬、殺意、そしてその後の後悔。それらが混ざり合い、熱い鉛となって四ツ谷の血を焦がしていく。
「九十九! 鯉だ! 間に合わない!」
冷泉が、血を吐きながら叫んだ。彼女の鼻からも、細い血が垂れている。
九十九が、鯉の泳ぐ水槽に、直接電気を通すような荒業に出た。
「呪い(毒)よ、散れ! こっちに来い!」
四ツ谷の体から漏れ出した黒い影が、鯉たちに吸い込まれていく。
優雅に泳いでいた真鯉たちは、一瞬で鱗が剥がれ落ち、内側から爆発するようにして腹を見せた。
一匹、二匹、三匹――。
すべての鯉が動かなくなったとき、ようやく指輪からの流出が止まった。
四ツ谷は、崩れ落ちるように床に倒れた。
彼の右半身は、もはや人間の肉とは思えないほどに変色し、焼け焦げたような跡が幾筋も刻まれていた。
「……ハァ、ハァ……。……終わったぞ、親父。……息子の首は、もう、絞まっていないはずだ」
依頼人の男は、指輪を受け取り、何度も頭を下げて店を去っていった。
その顔には、安堵の表情が浮かんでいたが、四ツ谷はそれを見るのが耐えられなかった。
「……四ツ谷さん。右手の震えが、肩を超えて胸元まで来ています」
冷泉が、氷のような手で四ツ谷の胸を触れた。
「……ああ。……分かってる。……今回の客、あいつ、気づいてなかったな」
「……何をだよ」
九十九が、鯉の死骸を片付けながら、低い声で聞いた。
「……あの指輪。……俺が吸い出したのは、二十年前の呪いだけじゃない。……あの男が、息子を救いたいと願ったことで生まれた、新しい『執着』もだ。……結局、因果は増えただけだ。……俺が、それを全部食った」
四ツ谷は、震える左手で自分の顔を覆った。
解呪とは、成功しても誰も幸せにならない、ただの「負債の付け替え」でしかなかった。
店外では、また一羽の野良犬が、何もない空間に向かって吠えていた。
四ツ谷の右半身は、もはや石よりも冷たく、そして重い。
看板を架け替えた店の中で、三人の影は、これまで以上に歪み、引き裂かれそうになっていた。
「……冷泉。……次の、ゴミは」
「……四ツ谷さん。次は、一人の少女です。……自分の『影』が、誰かを呪っていると言って、泣いています」
四ツ谷は、暗闇の中で、静かに目を閉じた。




