第8話:呪いにも、向き不向きがある
店内に漂うのは、鼻を突く塩素の強烈な臭気と、その奥に潜む、拭い切れない重い湿気だ。
四ツ谷の右半身は、もはや己の意思で動かせる肉ではなかった。包帯の下で固着した皮膚は、時折、古い地層が鳴るような軋み声を上げ、指先からはどす黒い体液が、冬の氷が解けるように絶えず滴り落ちている。
九十九は、無言で床に散らばった泥ドジョウの成れの果てを片付けていた。一度に大量の命を使い潰した後の店内は、不気味なほど静まり返り、壁の隅々には処理しきれなかった執念が、煤のように黒々とこびりついている。それは何度雑巾で拭っても落ちることはなく、むしろ拭くたびに、壁の向こう側から数多の指先が掻き毟るような幻聴を増幅させた。
そんな「沈没しかけた泥舟」のような店を訪れたのは、場違いなほど屈強な体躯を持つ男だった。
男は、冷泉のデスクの前に座るなり、懐から古びた一枚の家族写真を取り出した。
「これを……この男に、一番重い呪いをかけてほしい。……人生が、跡形もなく壊れるようなやつだ」
冷泉がピンセットで写真を摘み上げる。その銀色の先が、微かな振動を伝えた。
「拝見します。……四ツ谷さん、これを見てください」
四ツ谷は、震える左手で写真を受け取った。
その瞬間、彼の右半身が、まるで高圧電流を浴びたように激しく跳ねた。肩の関節が外れんばかりの勢いで鳴り、包帯の隙間からどろりと熱い液体が溢れ出す。
「……九十九さん、絶縁体を! 早く!」
四ツ谷の喉から絞り出された叫びと同時に、九十九が特大の盛り塩が入った桶を、四ツ谷と依頼人の間に叩きつけた。塩が激しく跳ね、床に散らばる。
「チッ! 四ツ谷、お前……よりにもよって、こいつを連れてきやがったか!」
写真に写っていたのは、穏やかな、あまりにも穏やかな笑みを浮かべた中年男だった。しかし、四ツ谷の壊れた脳が見ているのは、その男の背後に広がる底なしの虚無だ。それは、あらゆる色彩を吸い込み、吐き出すことを忘れた、漆黒の深淵だった。
「……お客様。……あいにくですが、この依頼は受けられません」
四ツ谷の声は、歯の根が合わないほど震えていた。
「なぜだ! 金ならいくらでも払う! こいつのせいで、俺の人生は……!」
「相性の問題ですよ」
四ツ谷は、写真をテーブルに叩き返した。指先が触れた部分が、まるで焼けた鉄を押し当てたかのように黒ずんでいる。
「……呪いには、向き不向きがある。この男は、鏡のような人間だ。強い念をぶつければぶつけるほど、その全てが歪みなく、増幅されて打ち手へと返ってくる。……今の俺がこいつに指を向ければ、呪い返しが発生する前に、俺の脳が内側から弾け飛ぶ」
男は逆上し、椅子を蹴り飛ばした。
「プロだなんだと言って、結局は腰抜けか! 呪い代行屋なんて、ただの詐欺師の集まりだな!」
男が店を飛び出していった後、店内には耳が痛くなるような、粘り気のある静寂が残った。
「……四ツ谷。お前、さっきの写真……気づいたか」
九十九が、震える四ツ谷の肩に手を置いた。
「……ああ。……あいつは、俺たちの『元・上司』だ。……あの会社が潰れた時、真っ先に逃げて、俺たちに全ての因果を押し付けた……張本人だ」
四ツ谷の意識が、混濁し始める。
右半身の痺れが、かつての組織での凄惨な記憶を呼び覚ましていた。
強欲な上司に命じられるまま、見知らぬ誰かを呪い続けた日々。そして、相手側にいた「本物」によって組織が内部から食い破られ、飼っていたインコが次々と発狂して自ら首を落とし、同僚たちが自身の内臓を呪詛の依り代として引き摺り出した、あの光景。
「……俺は、あの日から、記憶が歪んでるんだ」
四ツ谷が、苦しげに胸を押さえた。
「……自分が最初に何を呪ったのか、誰を救いたかったのか……思い出そうとすると、あの上司の笑い顔が、ノイズのように割り込んでくる。俺の過去は、俺のものじゃない。誰かの恨みで書き換えられた、寄せ集めの残骸だ」
「それは後遺症です、四ツ谷さん」
冷泉が、事務的に告げた。その瞳には、憐憫も恐怖もなかった。
「呪いは、過去すらも書き換える。貴方の『最初の記憶』は、すでに別の誰かの恨みと混ざり合い、オリジナルは消滅している可能性があります。貴方が貴方であるという証明は、もはやその右半身の痛みの中にしか残っていない」
その時、店内の「回収箱」が、ガタガタと激しく揺れ始めた。
箱の中から、懐かしい、それでいて吐き気を催すほど卑俗な男の声が聞こえてくる。
『……俺だよ、四ツ谷。……お前に仕事を教えた、俺だよ。お前の右腕の中に、俺はまだいるぞ』
「……っ、上司の声だ……!」
四ツ谷が床を這って箱に近づこうとするが、九十九がそれを力ずくで押さえ込んだ。
「馬鹿野郎! 箱を開けるな! そいつは本物じゃねぇ、お前の罪悪感が作り出した幻覚だ!」
四ツ谷の目から、どす黒い涙が溢れ出した。
「……俺が最初に呪ったのは、あの上司じゃなかったのか? ……いや、違う。俺は、誰かを救うために、この手を……」
店の外では、黒い野良猫が不気味な声で鳴いていた。
呪いには、相性がある。
そして、自分自身が「呪いの器」となった時、最も御しがたいのは、自分自身の過去という名の逃れられぬ呪詛だった。
「冷泉……次の資料を……」
四ツ谷は、泥の中に沈んでいくような、生気のない声で言った。
「……四ツ谷さん。次は、ご自身の解呪を希望する依頼人です。……それは、この店が決して触れてこなかった種類の依頼でした」
四ツ谷は、震える左手で顔を覆った。
自分の記憶が、自分の意思が、どこまでが「自分」なのか。
看板を架け替えた店の中で、三人の影は、さらに深く、暗く、交錯していく。




