第7話:代行屋が呪われすぎ問題
地下街の空気は、いよいよ逃げ場を失った澱みのように重く、粘りついていた。
店の中心に座る四ツ谷の姿は、一週間前よりも確実に削げ落ち、その肌は死人のような土気色に沈んでいる。右半身を覆う黒い包帯は、もはや皮膚の一部であるかのように馴染み、そこからは時折、冬の氷が割れるような不吉な音が響いていた。
「……四ツ谷、お前。さっきから何を見てるんだ」
九十九が、鳥籠の掃除をしながら不機嫌そうに声をかけた。
四ツ谷は、何もない空間を虚ろな目で見つめていた。
「……視線だ。……九十九さん、あんたには見えないか。あそこの隅、換気扇の隙間から、何十人もの『目』がこっちを覗いてる」
「ケッ、またかよ。そいつは俺たちがこれまで逃がしてきた呪いの『残りカス』だ。……より代が足りねぇんだよ。最近の依頼はどれもこれも執念深くて、インコ一羽じゃヒューズにもなりゃしねぇ」
九十九が指差したケージの中では、今日仕入れたばかりのインコたちが、一様に頭を垂れて小刻みに震えていた。呪いを受け止める「器」であるこの店そのものが、すでに飽和状態にあることを、敏感な小動物たちは察している。
冷泉が、事務机の引き出しから、一錠の真っ黒な錠剤を取り出し、四ツ谷の前に置いた。
「これを。……裏の『拝み屋』から流してもらった、一時凌ぎの神経遮断剤です。四ツ谷さん、今の貴方の重力は、もはや磁石と同じです。外を歩けば、道端の浮遊霊から他人の愚痴まで、すべて貴方の右半身に吸い寄せられてしまう」
四ツ谷は、震える手でその黒い粒を口に放り込み、水も飲まずに飲み下した。
「……冷泉。……店を閉めないか。……このままだと、俺が壊れる前に、この店が因果の重みに耐えきれず、時空ごと潰れるぞ」
「できません」
冷泉は、電卓を叩く手を止めずに即答した。
「この店を閉めるということは、これまで『回収箱』に押し込めてきた数万件の『身勝手な後悔』を一気に解き放つということです。そうなれば、この地下街……いえ、この街一つが、説明のつかない不運の連鎖で壊滅します。……貴方は『蓋』なんです、四ツ谷さん。蓋が自分から開くことは許されません」
その時、店の引き戸が、激しい勢いで開かれた。
だが、そこには客の姿はなかった。
ただ、湿った風と共に、大量の「黒い羽」が店内に舞い込んだ。
「……っ、九十九、伏せろ!」
四ツ谷が叫ぶと同時に、店内の照明が全て弾け飛んだ。
暗闇の中、四ツ谷の右半身が、青白い燐光を放ちながら異常に膨れ上がる。
それは、これまでの依頼で処理しきれず、四ツ谷の肉体に蓄積していた「呪いの過積載」による発火現象だった。
「あ、が……あ、あ、あああ!」
四ツ谷の喉から、彼自身の声ではない、何人もの老若男女が混ざり合った絶叫が漏れる。
彼の影が壁を突き抜け、生き物のようにのたうち回り、店内の什器を次々と破壊していく。
「九十九! 第六号のより代を! 全部だ、全部使え!」
冷泉が、暗闇の中で叫んだ。
九十九は、恐怖に顔を引きつらせながら、奥の隠し部屋から巨大な水槽を引きずり出してきた。中には、数百匹の真っ黒な「泥ドジョウ」が、うごめき合っていた。
「これ以上は俺の手に負えねぇぞ! 四ツ谷、耐えろ! 死ぬなら外で死ね!」
九十九が、水槽の蓋を四ツ谷の足元で叩き割った。
四ツ谷から溢れ出した黒い影が、水槽から飛び出したドジョウたちに吸い込まれていく。
バチバチ、と電気が走るような音が響き、ドジョウたちは一瞬で炭のように黒焦げになり、あるいは泥のように溶けていった。
……数分後。
予備の非常灯が点灯し、惨劇の跡を照らし出した。
四ツ谷は、溶けたドジョウの死骸が散乱する床に、全裸に近い状態で倒れ伏していた。その背中には、まるで刺青のように、幾重にも重なる「呪いの紋様」が刻まれていた。
「……生きてるか、四ツ谷」
九十九が、恐る恐る近づき、四ツ谷の肩を揺らす。
「……ああ。……まだ、蓋は、閉まったままのようだ」
四ツ谷は、血を吐きながらも、微かに笑った。
右半身の痺れは、今や首元まで這い上がっている。
冷泉は、荒れ果てた店内に視線を向け、手元のメモ帳に短く記した。
『より代の損耗、限界を突破。四ツ谷の受肉率、七十パーセントを超過。……店を閉めない理由の再確認が必要』
「四ツ谷さん、一つだけ聞いておきます」
冷泉が、倒れたままの四ツ谷を見下ろして言った。
「貴方はなぜ、そこまでしてこの『蓋』を続けているのですか。かつての組織が潰れた時、貴方は一人で逃げることもできたはずです」
四ツ谷は、焦点の合わない目で天井を見つめた。
「……さあな。……ただ、俺がここで蓋を外せば、俺が一番最初に呪った『あいつ』が、自由になっちまう気がしてな」
四ツ谷の言葉に、九十九と冷泉は、言葉を失った。
彼の「最初の依頼」については、店内の誰も触れたことのない禁忌だった。
店外では、雨が降り始めていた。
それは、空から降る雨ではなく、地下街の湿気が限界を超えて滴り落ちる、泥のような雫だった。
「……次の客、呼んでくれ。……インコが足りないなら、俺の肉で、少しずつ払うさ」
四ツ谷は、震える左手で再び包帯を巻き始めた。
呪われすぎた代行屋の日常は、崩壊の予兆を孕んだまま、また次の不運を迎え入れる。




