第4話:自覚のない呪いが一番やばい
その客は、これまでの依頼人とは明らかに異質な空気を纏っていた。
上品な藤色の着物に身を包んだ、六十代半ばの女性。物腰は柔らかく、その顔には慈愛に満ちた微笑みすら浮かんでいる。彼女は、冷泉が差し出した渋い茶を一口啜ると、鈴を転がすような声で言った。
「私、本当に困っているんですの。あの方……お隣の若い奥様。私、あの方のためにと思って、ゴミの出し方や庭の手入れを丁寧に教えて差し上げているのに、最近は私を避けるような顔をなさって。あげくの果てには、私のことを『気味が悪い』なんて、他の方に吹聴しているんですのよ。悲しいことですわね」
冷泉が、無表情に手元の端末を操作する。
「……それで。その奥様に対して、どのような処置をお望みですか?」
「あら、処置だなんて。私はただ、あの方が『正しく』なってくださればいいんです。自分がどれほど間違ったことをしているか、骨身に沁みて分かってくだされば。神様だって、悪い子には罰をお与えになるでしょう? 私はそのお手伝いをして差し上げたいだけなの」
四ツ谷は、部屋の隅で椅子の背もたれに深く沈み込みながら、その女を観察していた。
右半身の「冷え」が、これまでにないほど激しく反応している。震えを抑えるために、彼は左手で右の肘を強く掴んだ。
(……やばいな、こいつ)
女の背後には、おどろおどろしい怨念のオーラなど見えなかった。しかし、彼女の周囲の空気だけが、まるで真空のように不自然に澄み渡っている。それが逆に、吐き気を催すほどの違和感を放っていた。
「九十九さん、どう思う」
四ツ谷が、低い声で問いかけた。
九十九は、作業台の陰で獲物を狙う獣のような目で女を睨んでいた。
「……最悪だ。自覚がねぇ。自分を『正義』だと思い込んでやがる。こういう奴から剥がれ落ちる念は、針金みたいに硬くて鋭いんだ。バイパスに流そうとしても、管をズタズタに切り裂きやがるぞ」
呪いには二種類ある。
一つは、憎しみを自覚し、泥を投げつけるような呪い。これは汚れこそすれ、処理はしやすい。
もう一つは、この女のように、善意や正義を免罪符にして放たれる「生き霊」だ。本人は自分を「被害者」だと思い込み、相手を「教育」してやると本気で信じている。その純粋すぎるエネルギーは、ブレーキのない暴走特急と同じだった。
「お引き受けしましょう」
冷泉が、四ツ谷の制止を待たずに契約書を滑らせた。
「ただし、今回は特殊な処置が必要です。お客様、その『正しい想い』を、この人型に移してください。あとのことは、我々が『神様の代わり』に執り行います」
女は、嬉しそうに微笑んで人型を受け取り、そこにスラスラと相手の奥様の名前を書いた。
その瞬間、店内の電球が「パキッ」と嫌な音を立てて割れた。
女が帰った後、店内にはかつてないほどの緊張感が漂った。
「冷泉、何でお前、あんなのを受けた。あれは毒じゃない。もっとたちの悪い『放射能』みたいなもんだぞ」
四ツ谷が、吐き捨てるように言った。
「金払いが良かったからです。それに、こういう手合いは放っておくと勝手に周囲を汚染して、我々のシマを荒らします。……今のうちに、その念を『抜いて』おかないと」
九十九が、慌てて「より代」のケージを積み上げた。今回はインコでもネズミでもない。
「……蛇だ。こういう硬い念を流すには、こいつらの皮の厚さが必要だ。……四ツ谷、準備はいいか」
四ツ谷は中央の座に就いた。
人型を置いた瞬間、四ツ谷の影が不自然に伸び、意思を持っているかのように壁を這い上がった。
「……う、あ……っ!」
四ツ谷の喉から、掠れた悲鳴が漏れる。
女の放った「善意」という名の針が、バイパスを通じて四ツ谷の神経を逆なでし始めた。
それは、白光するほどに純粋な、狂気だった。
『私は正しい』
『あの子のためなの』
『なぜ分かってくれないの』
その声が、四ツ谷の脳内に直接響き、思考を焼き切ろうとする。
「九十九! 早くしろ! 影が……俺の影が、食われる!」
四ツ谷の影が、彼自身の意志を離れ、冷泉の首元に向かって触手のように伸びた。
冷泉は、表情一つ変えずに、デスクの引き出しから取り出した「絶縁処理された鏡」を四ツ谷に向けた。
「反射……! 九十九さん、蛇に繋いで!」
九十九が、蛇のケージを一斉に開いた。
四ツ谷の影から溢れ出した「白い針」のような念が、次々と蛇たちの体に吸い込まれていく。
蛇たちはのたうち回り、自身の体を結び目を作るようにして締め上げ、一匹、また一匹と絶命していった。
十数分の死闘の後。
四ツ谷は、全身から湯気を立てるようにして崩れ落ちた。
「……フゥ、フゥ……。あいつ……自分が何をしたか、一生気づかないだろうな」
翌日。
あの奥様の一家は、夜逃げ同然に引っ越していったという。
物理的な実害は何もなかった。ただ、朝起きた時に、家の中が「耐え難いほど清浄で、不気味なほどの沈黙」に包まれていることに耐えられなくなったのだ。
依頼人の女は、数日後、満足げな顔で礼を言いに来た。
「あら、お引越しされたんですって? きっと私の想いが通じて、あの方も新しい場所でやり直そうと思われたのね。本当に、良かったわ」
彼女が店を出た後、九十九が床に唾を吐いた。
「……神様か。神様ってのは、あんなに性格が悪いのかね」
冷泉は、割れた電球を片付けながら、冷たく言った。
「自覚のない悪こそが、この世で最も効率的に、そして無残に人を破壊する。……四ツ谷さん、影を見てください」
四ツ谷が足元を見ると、彼の影の端が、ボロボロに欠けていた。
まるで、何かに食いちぎられたかのように。
「……ああ。……あいつに、食われたな」
四ツ谷の影は、二度と元の形には戻らなかった。
善意という名の暴力は、バイパスを通り抜ける際に、器の魂さえも削り取っていった。




