第36話:四ツ谷・負債管理事務所
空は、不気味なほどに凪いでいた。
地上二十階。窓のなくなった事務所の跡地には、街の喧騒ではなく、耳鳴りのような静寂だけが沈殿している。
「……九十九さん。新しい帳簿を、用意しました。……いえ、これは『請求書』と呼ぶべきかもしれません」
冷泉の声には、かつての事務的な硬質さが戻っていた。彼女の瞳には、希望も絶望もない。ただ、目の前に積まれた「誰にも処理できない残骸」を、一文字ずつ書き写していくという、終わりのない作業への覚悟だけが宿っている。
九十九は、汚泥で真っ黒に染まったバケツの水を床にぶちまけ、這いつくばって石床を磨いていた。いくら擦っても、四ツ谷が流した「二十年分の澱み」は、大理石の紋様の一部となって決して消えることはない。
「……ケッ、一晩で綺麗になるなんて思っちゃいねぇよ。……この汚れは、街の土台にまで染み込んでんだ。……一生かけても、磨ききれるかどうかだな」
そこへ、病院の寝巻きの上に古いコートを羽織っただけの男が、音もなく現れた。
四ツ谷だ。
彼の右胸にあった「穴」は、確かに塞がっている。だが、そこは滑らかな肌に戻ったのではない。火傷の痕のような、引き連れた醜いケロイドが、彼の右半身を強引に繋ぎ止めているだけだ。
四ツ谷が深く呼吸をするたびに、そのケロイドが悲鳴を上げるように軋む。
穴がなくなったことで、彼は「不利益を吸い込む」能力を失った。しかし、それは彼が「不利益の影響を受けなくなった」ことを意味しない。
今や彼は、街を流れるあらゆる悪意、嫉妬、怠慢の気配を、穴というフィルターを通さず、「生身の神経」で直接、鋭敏に感じ取ってしまう呪いにかかっていた。
「……九十九さん。……冷泉。……コーヒーは、……まだか」
四ツ谷の声は、石を噛み砕くような苦痛を伴っていた。
彼が一歩歩くごとに、街のどこかで誰かがついた嘘が、彼の背骨を針で刺すように襲う。誰かが誰かを呪えば、彼の右胸の傷が裂けるような熱を持つ。
彼は救われてなどいない。
街が存続し、人間が不利益を排出し続ける限り、四ツ谷はそれらすべてを「体感」し続けなければならない。死ぬことさえ、この敏感すぎる肉体が許さない。
「……四ツ谷さん。最初の案件です」
冷泉が、血の気の失せた指先で一通の封筒を差し出した。
「……再開発エリアで、また『理由のない体調不良』が蔓延しています。……原因は、地下に埋め戻した汚泥の、さらなる深層への浸透。……私たちが、素手で掘り返しに行くしかありません」
四ツ谷は、震える手でその封筒を受け取った。
封筒に触れた瞬間、依頼人の絶望が、冷たい汗となって彼の背中を伝い落ちる。
「……ああ。……分かってら。……掃除は、……一生終わらねぇ」
四ツ谷は、窓のないベランダの縁に立ち、歪んだ街を見下ろした。
かつての「看板」は、九十九の手によって再び、元の位置に、歪んだまま打ち付けられていた。
『四ツ谷・負債管理事務所』
看板の文字は、夕闇の中で、まるで乾かない血のように赤く光っている。
不利益の供給は止まらない。
三人は、この汚濁に満ちた世界で、たった一つの「逃げ場のないゴミ捨て場」として、永遠に、誠実に、腐り続けることを選んだ。
それが、彼らに与えられた、唯一の、そして最悪の「生」の形だった。




