第34話:契約解除の儀
事務所の窓ガラスが、内側からの圧力に耐えかねて一斉に粉砕された。
地上二十階、吹き込む夜風は鋭い刃物のように室内を掻き回すが、四ツ谷の右胸から溢れ出す「逆流」の熱量は、それさえも一瞬で蒸発させていく。
最終顧客――街の悪意の総体――は、四ツ谷が二十年かけて溜め込んできた「全在庫」の質量に圧し潰され、実体を維持できずにのたうち回っていた。四ツ谷が喉を鳴らして笑うたび、客の輪郭からは、かつて彼が「無かったこと」にしてきた人々の断末魔が、物理的な衝撃波となって撒き散らされる。
「……九十九さん、今です。四ツ谷さんの意識が、街の基幹データと『逆流』で繋がっている今しかありません。……彼をこの呪縛から物理的に切り離します」
冷泉の声は、怒号のような風の中でも正確に、そして冷徹に響いた。彼女は自身の端末を、四ツ谷の硬化した右肩に直接突き立てている。画面には、かつての組織が、四ツ谷を「永久欠番のゴミ箱」として固定するために施した、三重の論理ロックが表示されていた。
それは、四ツ谷の心拍が停止してもなお、その肉体が負債を吸い込み続けるよう設計された、非人道的な「契約」の正体だった。
「……ケッ、やりゃあいいんだろ! おい四ツ谷、ちょっとの間だけ我慢しろよ。……お前の胸にあるそのクソッタレな『穴』を、今ここで俺が……力技でブチ切ってやる!」
九十九は、絶縁バールの先端を、四ツ谷の右胸の「縁」へと差し込んだ。
そこはもはや生身の肉ではない。数万人の怨嗟が凝固し、ダイヤモンドよりも硬く、そして毒々しく変質した「負債の結晶」だ。バールが触れた瞬間、九十九の腕には、かつてないほどの不快な「拒絶」が走り、彼の鼻や耳から、どろりとした黒い血が溢れ出した。
「……冷泉、……九十九、さん……。……いいんだ、……もう……。……俺は、……こいつと一緒に……」
「黙ってなさい、代表!」
冷泉が、キーボードを叩く指を血に染めながら叫んだ。
「……貴方は今まで、一度も『拒否権』を行使してこなかった。……他人のツケを払うのが貴方の仕事なら、貴方の自由を取り戻すのは、事務担当である私の仕事です。……契約解除、第一段階……承認!」
冷泉の操作と共に、四ツ谷の右胸から、金属が引きちぎれるような悍ましい音が響いた。
穴を固定していた「論理的な鎖」が一本、また一本と外されていく。そのたびに、四ツ谷は全身を弓なりに反らせ、この世のものとは思えない絶叫を上げた。彼の肉体から、街の不利益を繋ぎ止めていた「磁力」が失われ、吸い込んできた汚泥が、行き場を失って室内に霧散していく。
「……第二段階、……強制執行! 九十九さん、そこだ! 物理的な『楔』を叩き折ってください!」
「おおおおおおおっ!」
九十九が、自身の筋肉が断裂する音も厭わず、バールに全体重を乗せた。
四ツ谷の右胸の穴の縁、組織が打ち込んだ「負債の定着器」が、九十九の渾身の一撃によって、火花を散らしながら粉砕された。
瞬間、事務所全体が、眩いばかりの、だが泥のように暗い光に包まれた。
四ツ谷の肉体を二十年縛り続けてきた、組織との、そして街との「契約」が、物理的な質量を伴って爆発し、三人を吹き飛ばした。
……静寂が戻った。
割れた窓から吹き込む風は、もはや鉄臭くない。
四ツ谷は、粉砕された床の上で、仰向けに倒れていた。
彼の右胸。そこにあった「穴」は、もはや負債を吸い込むことはない。ただの、痛々しく、そして深い、一人の人間の「大きな傷口」として、静かに血を流していた。
「……解除、完了……。……四ツ谷さん、……貴方は今、……ただの、重傷を負った……ただの、人間です」
冷泉は、力なく笑いながら、床に倒れ込んだ。彼女の端末は、役目を終えて静かに消灯している。
九十九は、折れたバールを杖代わりに、四ツ谷の元へ這い寄った。
「……へっ、……ざまぁねぇな。……穴がなくなったら、……ただの、ボロボロのおっさんじゃねぇか、……四ツ谷」
四ツ谷は、ゆっくりと、震える左手を、自分の右胸の傷に当てた。
そこからは、他人の怨念ではなく、自分自身の「痛み」が、鮮明に伝わってくる。
「……ああ。……痛い、な。……九十九さん、……冷泉。……俺、……ようやく、……自分の分の……ツケを、払えた気がするよ」
だが、安らぎはまだ訪れない。
契約を解除された「負債」たちは、主を失い、この街の至る所で暴走を始めようとしていた。
四ツ谷が解き放った「自由」という名の劇薬が、街全体を飲み込もうとしていた。




