第33話:総債権の督促
事務所の床を、どす黒い染みが侵食していた。
それは四ツ谷の右胸から溢れ出す、未処理の体液と「街の膿」が混ざり合ったものだ。剥き出しになった右胸の穴は、もはや円形を保つことすらできず、裂けた肉が脈動するたびに、室内の空気に鉄錆とヘドロの異臭を振りまいている。
「……九十九さん、心拍が。鼓動の一つ一つが、外部の不利益と共鳴しています。四ツ谷さんの心臓を、街全体の歪みが直接握りつぶそうとしている……!」
冷泉の声は、極限まで張り詰め、氷のように尖っていた。彼女は床に散らばった端末を拾い上げることもしない。ただ、ソファに横たわる四ツ谷の、もはや人間としての輪郭を失いかけている右半身を、痛ましげに見つめていた。
九十九は、絶縁バールの代わりに、清潔な布を何枚も重ねて四ツ谷の傷口を抑えていた。だが、布は当てるそばから黒く汚れ、四ツ谷の肉体の一部であるかのように癒着して剥がれなくなる。
「……ケッ、しぶとい野郎だぜ。こんな状態で、まだ『追加案件』を受けようってのか。……おい四ツ谷、聞こえるか。お前が今食い止めてるそのゴミ、……もう誰にも届かねぇよ。世界は、お前のことなんて、とっくに忘れて動き始めてんだ」
四ツ谷は、粘つく瞼を僅かに持ち上げた。
視界は失われつつあるが、彼の耳には、ビルの外、街の深淵から這い上がってくる「巨大な足音」がはっきりと聞こえていた。
その時、電力も止まったはずの事務所のドアが、重々しく開かれた。
カウベルの音は、鳴らなかった。代わりに、室内の温度が一気に氷点下まで下がり、窓ガラスに真っ黒な霜が降りた。
入ってきたのは、特定の誰かではない。
それは、この街が数十年かけて積み上げてきた、あらゆる「忘却」と「使い捨て」の集合体。組織を裏から操り、不都合な真実をすべて四ツ谷という穴に投げ込んできた、この都市の「悪意の総体」そのものだった。
「……まだ吸い込めるだろう、四ツ谷・負債管理事務所・代表」
その「客」の声は、何千人もの話し声が重なったような、悍ましい不協和音だった。客が歩くたびに床の絨毯が瞬時に朽ち果て、四ツ谷の傷口から漏れ出す汚泥が、まるで磁石に引き寄せられるように客の足元へと流れていく。
「……お前が吸い込んでくれたおかげで、この街は清浄に保たれてきた。だが、まだ足りない。街の更なる拡大のために、お前の器を限界まで拡張させてもらう。それが、お前に与えられた唯一の役割だ」
客が四ツ谷の枕元に立った。
冷泉が立ち上がろうとしたが、その場に縫い付けられたように動けず、九十九がバールを手にしようとしたが、その腕は自分の意志を裏切るように麻痺した。
四ツ谷は、血の混じった喘鳴を上げながら、ゆっくりと左手を伸ばした。
その指先は、客の影に触れ、そのまま右胸の、剥き出しになった穴へと引き寄せた。
「……役割……か。結構なことだ。だが、……俺の帳簿には、まだ……あんたらから回収してねぇ『巨大なツケ』が残ってる」
四ツ谷の右胸の穴が、かつてないほどの、深淵のような闇を湛えて口を開けた。
それは、街が差し出した「破滅」を吸い込むためのものではない。
四ツ谷が二十年かけて溜め込んできた、すべての「犠牲者たちの意志」を、この街の支配者へと直接叩き返すための、逆流の入り口だった。
「……吸い込むのは、もう終わりだ。これからは、……お前が、俺の溜め込んだ二十年分の『全在庫』を受け取る番だ。……総債権の、督促(取り立て)だよ」
四ツ谷の喉から、一筋の清冽な声が漏れた。
その瞬間、事務所内の空気が逆転した。
四ツ谷の穴から溢れ出していた汚泥が、一気に「客」の肉体へと逆流し、この街が無視し続けてきたすべての不利益が、その生みの親に向かって牙を剥いたのだ。
「あ、が……ああ、あああああああ!」
客の絶叫が、事務所の壁を震わせ、窓ガラスにヒビを入れる。
九十九は、四ツ谷の体を強く抱きしめた。
「……四ツ谷! お前……これ、自分ごとぶつける気か!」
「……九十九さん、冷泉……。窓を、開けてくれ。この街に、……本当の、空気を吸わせてやるんだ。……商談は、ここからだ」
四ツ谷の肉体が、眩いばかりの、だが泥のように暗い光に包まれていく。
それは、街の心臓部を直接焼き切るための、命を賭した「攻勢」の始まりだった。




