第32話:剥き出しの穴
事務所の床に、かつてないほどの鮮血が広がっていた。
四ツ谷の肉体を維持していた灰色の外殻は、再開発エリアの亡霊たちを「認めた」際の負荷によって完全に剥落し、その下から現れたのは、過労と汚染によってボロボロに崩れかけた一人の男の生身だった。
右胸の穴は、もはや「器」としての機能を喪失し、剥き出しの傷口として外気に晒されている。そこからは、吸い込んできたはずの他者の記憶が、処理しきれない汚泥となって絶え間なく溢れ出していた。
「……九十九さん、離れてください。……止血は不可能です。……彼を繋ぎ止めているのは、もはや生存本能ではなく、単なる『負債の慣性』に過ぎない」
冷泉の声は、極限まで張り詰め、ひび割れていた。彼女の端末の画面には、かつての組織が「管理番号0482」のバックアップ案として用意していた、禁忌の処置ログが表示されている。
それは、四ツ谷の肉体を、付近の住人の「生命力」と強制的に接続し、他人から健康を徴収(徴用)することで器を無理やり修復する、最悪の延命措置だった。
「……冷泉、お前……その画面、何だ」
九十九が、血の匂いに当てられた獣のような鋭い視線で、彼女の端末を睨みつけた。
「……組織が残した、唯一の補修プログラムです。……これを実行すれば、四ツ谷さんの細胞は再構築され、右胸の穴も再び閉じることができる。……代償は、この区画の住人たちの、数年分の平均余命です」
静寂が、ナイフのように事務所を切り裂いた。
九十九が、バールを床に叩きつけ、冷泉の胸ぐらを掴み上げた。
「……ふざけんじゃねぇぞ、この事務員が! ……四ツ谷が、そんなことを望むと思ってんのか! ……あいつは、他人の泥を被るために生きてきたんだ。……他人の命を食って生き長らえるなんて、……そんなのは、あいつに対する一番の侮辱だ!」
「……死なせるよりはマシです!」
冷泉が、感情を爆発させて叫び返した。
「……このままでは、彼は数時間以内に、自分が抱えた負債の重みに押し潰されて破裂する! ……そうなれば、この街全体が、彼が飲み込んできた二十年分の悪意で汚染されるんです! ……誰かが犠牲になるのは、もう避けられない!」
二人の怒号が飛び交う中、ソファに横たわる四ツ谷が、ゆっくりと左手を動かした。
指先が、冷泉の端末に触れる。
「……冷泉。……九十九、さん。……やめろ」
四ツ谷の声は、微風に消えてしまいそうなほどに弱々しかった。
だが、その瞳には、混沌とした苦痛を突き抜けた、透明な意志が宿っていた。
「……俺は、……他人から、奪ってまで……生きるほど、……厚かましい商売人は、……してないつもりだ。……それに、……穴を塞いだら、……俺の中にいる連中が、……外に出られなくなる」
四ツ谷は、剥き出しになった右胸の傷口を、自らの左手で愛おしそうに撫でた。
そこからは、かつて彼が「無かったこと」にしてきた人々の、微かな、だが確かな鼓動が伝わってくる。
「……剥き出しで、……いいんだ。……中身が……見えるくらいの方が、……誠実だろ」
四ツ谷の言葉と共に、彼の傷口から、一際濃い黒い霧が噴き出した。
それは冷泉が提示した術式を、四ツ谷自身の意志が拒絶した証だった。
冷泉は、力なく膝をつき、端末を床に落とした。
「……四ツ谷さん。……貴方は、どこまで……」
「……冷泉。……君が、……俺のために……鬼になろうとしてくれたことは、……ちゃんと……帳簿に、付けておくよ」
四ツ谷の右胸の穴は、以前よりも大きく、痛々しく、世界の歪みをそのまま写し取ったかのように開いていた。
九十九は、無言で四ツ谷の横に座り込み、その震える肩を支え続けた。
外では、明け方の街が、何事もなかったかのように動き始めようとしている。
だが、この事務所には、死よりも深い「覚悟」が、澱のように沈殿していた。




