第30話:三人目の精算人
三箇所目の拠点は、かつての事務所からも、若者のいた地下倉庫からも遠く離れた、古い雑居ビルの最上階にあった。
エレベーターはとっくに止まり、非常階段を一段登るごとに、四ツ谷の右半身が鉛のように重くなっていく。前話で若者の「複製システム」から逆流させた、数千人分の当事者性という名の汚泥が、まだ彼の神経を内側から焼き続けていた。
「……九十九さん、待ってください。……ここには、悪意の滞留がありません」
冷泉が、踊り場で立ち止まった。彼女の持つ端末は、異常なほどに平坦な数値を表示している。そこにあるのは「不利益」ですらない。ただ、凪いだ海のような、絶対的な「無」の気配だった。
九十九は、絶縁バールを握り直すが、その指先にはいつもの緊張感ではなく、説明のつかない不快な「拒絶感」が走っている。
「……ああ。……臭わねぇんだ。……ゴミ屋敷の臭いも、血の臭いも。……なのに、……背筋が凍りついてやがる」
三人が最上階のドアを開けた先、そこは広い、がらんとした一室だった。
中央に一つだけ置かれた事務椅子。そこに座っていたのは、かつての組織の幹部でも、血気盛んな若者でもなかった。
煤けた灰色のコートを纏った、初老の男。
男は四ツ谷を一瞥すると、手にした古い革の帳簿をゆっくりと閉じた。
「……久しぶりだな、四ツ谷。……いや、今は『代表』と呼ぶべきか」
男の声が響いた瞬間、四ツ谷の足が止まった。
かつての地下街で、四ツ谷を「穴」に変えた最初の儀式の場。そこに立ち会い、四ツ谷の右胸に最初に不利益を流し込んだ、三人目の「精算人」。
「……先生。……あんた、……まだ生きていたのか」
四ツ谷の声は、これまでのどの戦いよりも低く、震えていた。
「先生」と呼ばれた男は、四ツ谷の右胸の穴を、まるで慈しむような、そして同時に徹底して突き放すような視線で見つめた。
「……偽物の四ツ谷をバラ撒き、不利益を『コピー』して薄めたのは、私の教え子たちだ。……だが、彼らは若すぎた。……不利益を薄めることはできても、その後に残る『意味』の始末を知らなかった」
男が椅子から立ち上がると、部屋の空気が一気に収縮した。
男には、四ツ谷のような異形はない。だが、彼の周囲にある「無」は、四ツ谷が抱えてきたすべての汚泥を、一瞬で「なかったこと」にしてしまうほどの、圧倒的な虚無を孕んでいた。
「……四ツ谷。……お前がその穴で吸い込み続けてきたものは、救いでも掃除でもない。……ただの『先延ばし』だ。……お前が抱え込んでいる数万人の恨み。……それを今、ここで私が『解体』してやろう。……代価として、お前のその、醜い存在そのものを貰い受ける」
男が手を伸ばした。
その瞬間、冷泉が端末を叩き、九十九がバールを振りかざしたが、二人の動きは男の数歩手前で「意味」を失い、霧散した。
「……触れるな、二人とも。……この男は、……不利益を食う俺とは違う。……不利益が生じる『理由』そのものを、抹消する男だ」
四ツ谷が二人の前に立ち塞がった。
四ツ谷の右胸の穴が、自らを守るように、これまで溜め込んできた黒い汚泥を激しく溢れ出させた。だが、その汚泥は男の体に触れる寸前、あたかも最初から存在しなかったかのように消えていく。
「……四ツ谷。……お前が死ねば、お前の中に溜まったゴミが街に溢れると思っているのか? ……違う。……私がそれを『ゼロ』にしてやる。……お前が必死に耐えてきたその激痛も、冷泉や九十九と過ごした時間も、……すべては『無意味なコスト』として、私がこの世から清算してやる」
それは、四ツ谷が最も恐れていた「消滅」だった。
痛みが消えるのではない。苦しみが報われるのでもない。
「何もなかった」ことにされるという、究極の暴力。
「……ふざ、けるな……。……俺が、……こいつらを……。……俺たちが、……ここにいたことは……、……コストなんかじゃない……!」
四ツ谷の喉から、血の混じった咆哮が漏れる。
男の「ゼロ」という名の理屈に対し、四ツ谷は、自分がこれまでに吸い込んできたすべての不利益の「重み」を、ただ一人の人間としての「執着」に変えてぶつけた。
部屋を支配していた無機質な静寂が、四ツ谷のドロドロとした、あまりに人間的な慟哭によって、内側から激しくひび割れた。
「……先生。……あんたの清算は、……まだ早い。……俺たちの『汚れ』は、……俺たちの手で、最後まで持っていくんだよ」
四ツ谷の右胸の穴から、一筋の、今まで見たこともないような「真っ赤な血」が溢れ出した。
それは、数万人の死者の代弁ではなく、ただの、四ツ谷という男自身の「生の証明」だった。
男の表情が、初めて僅かに歪んだ。
完璧だったはずの「ゼロ」の中に、一滴の、決して消すことのできない「個人の意志」が混ざり込んだのだ。
沈黙。
男はゆっくりと手を下ろし、再び事務椅子に座り直した。
「……いいだろう。……お前がそこまで『ゴミ』であることを選ぶなら、最後まで持っていくがいい。……だが、四ツ谷。……お前の穴が塞がるその瞬間、……誰もお前を『覚えて』はいないだろう。……それが私の最後の清算だ」
三人は、男を残して雑居ビルを後にした。
四ツ谷の右胸の穴からは、静かに、だが絶え間なく、人間としての血が溢れ続けていた。
「……四ツ谷さん。……止血は、……できません。……これが、……清算の痛みです」
冷泉が、震える手で四ツ谷の腕を支えた。
「……ああ。……痛いな。……最高に、……生きてる気がするよ」
夜の街は、相変わらず冷たく、そして美しかった。
三人の絆は、かつてのような「負債の共有」ではなく、消えゆくものへの「共犯」へと、その形を変え始めていた。




