第29話:負債の複製(コピー)
二箇所目の拠点は、さらに無機質な場所に設えられていた。
都心から外れた、稼働を止めた印刷工場の地下倉庫。インクの鋭い匂いと、冷却ファンの乾いた回転音が、重い沈黙を切り裂いている。そこには前話の男のような俗な野心も、安っぽいデスクもなかった。
「……九十九さん、止まってください。……この先の不利益の割り振りが、あまりに整然としすぎています」
冷泉の声が、コンクリートの壁に反響した。彼女の手元にある端末は、先ほどから一定のリズムで処理エラーを吐き出している。それは検知不能なほど巨大な歪みがあるからではなく、不運のなすりつけ先が、まるで精密機械の部品のように、完璧な帳簿上のバランスで「ルール化」されているためだった。
倉庫の中央。そこには、純白の防護服を纏った、二十歳そこそこの若者が立っていた。
彼の周囲には、巨大なデータサーバーが整列し、そこから伸びる無数のコードが、床に横たわる「負債の供給源」たちの頸椎に直接接続されている。
「……遅かったですね、四ツ谷さん。……いえ、『旧型』と呼ぶべきでしょうか」
若者の声には、高低がない。
彼は四ツ谷を見ても、何の感慨も抱いていないようだった。ただ、検品を終えたばかりの不良在庫を眺めるような、透き通った無関心。
「……君が背負っているその『右胸の穴』は、あまりに非効率だ。……不利益を苦痛として感じ、肉体を蝕ませ、精神的な重圧に耐えながら吸い込む。……それは、ただの非合理な労働に過ぎない」
若者が、目の前の端末を軽く操作する。
サーバーが明滅し、四ツ谷の右胸が、かつてないほどの「冷たさ」を検知した。
「……僕は、不利益を『痛み』だとは思いません。……それは、ただの書き換え可能な規約です。……特定の個人に紐付けられている不運を強制的に引き剥がし、別の無数の匿名アカウントへ均等に分配する。……数千万人で一ミリグラムずつの絶望を分担すれば、誰も死なないし、誰も恨まない。……これを僕は『負債の複製』と呼んでいます」
「……分配、だと?」
九十九が、バールを強く握り直した。
「……そんなことして、街中の奴らが少しずつ、理由もなく不幸になったらどうすんだよ。……誰も気づかねぇうちに、みんなの人生が薄汚れていくんじゃねぇのか」
「……ええ。それでいいんです。……誰も気づかないのなら、それは不利益とは呼びません」
若者が、四ツ谷へ歩み寄った。
若者の纏っているのは、世界から「意味」を剥ぎ取った「責任の真空」だった。
「……四ツ谷さん。……貴方の『重み』は、もう必要ありません。……貴方が必死に抱えてきたその汚泥を、僕がここで薄めて、世界中にバラ撒いてあげましょう。……そうすれば、貴方の穴も、ようやく塞がる」
若者が四ツ谷の右胸に手を伸ばした。
若者の指先が触れた場所に、物理的な衝撃はない。だが、四ツ谷がこれまで命を削って「個人の責任」として抱え込んできた無数の怨念たちが、若者の「事務的な処理」によって、単なる匿名データとして分解されようとしていた。
「……あ、が……っ!」
四ツ谷の喉から、声にならない苦悶が漏れる。
痛くないことが、何よりも恐ろしかった。
自分が背負ってきた絶望が、単なる「薄められるべき数値」として扱われる屈辱。
「……冷泉、……九十九さん……、……こいつは、……俺を、殺そうとしているんじゃない……。……俺たちが、……やってきたことすべてを、……『無かったこと』に、しようとしてるんだ……」
四ツ谷の右胸の穴が、かつてないほどに、どす黒く拍動した。
それは、若者が提唱する「効率的な虚無」に対する、あまりに泥臭く、あまりに人間的な「執念」の抵抗だった。
「……九十九さん! その装置の電源を落とすんじゃありません! ……この仕組みそのものを、四ツ谷さんの穴に繋いでください!」
冷泉が、激しい勢いでキーボードを叩き始めた。
「……薄めてバラ撒くなんて、許しません。……四ツ谷さんの『顔のある責任』を、こいつに、直接叩き込んでやる!」
九十九が、絶縁バールを若者の接続機器に叩き込み、無理やり回路を組み替えた。
倉庫内に、不快な高周波が響き渡る。
四ツ谷が溜め込んできた「数千人分の、薄めることのできない、純粋な自業自得」が、若者のクリーンな仕組みへと逆流し始めた。
「な……っ、何を……。……やめてください、分配規約が……っ、計算が合わない……! ……重すぎる! こんな執念、……想定して……!」
若者の無機質な表情が、初めて恐怖に歪んだ。
彼が「数値」として見ていたはずの絶望が、四ツ谷の肉体を通じて「自覚すべき個人の罪」として牙を剥き、逃げ場のない自責となって彼に襲いかかった。自分だけは例外だと思っていた若者の傲慢さが、一気に崩壊していく。
「……これが、……清算だ」
四ツ谷が若者の胸ぐらを掴んだ。
若者は、自分が「一ミリグラムずつに薄めていた」はずの絶望の、そのすべての「当事者性」を、一度に飲み込まされることとなった。
……沈黙が戻った。
若者は、真っ白な防護服を汚しながら、ただ呆然と床に座り込んでいた。彼の瞳からは先ほどの透明感は消え、ただ「自分は、自分だけは、安全だと思っていた」という、最も醜悪な傲慢さの残骸だけが、泥のように沈殿していた。
三人は、地下倉庫を後にした。
四ツ谷の右胸の穴は、以前よりも重く、鈍く、拍動し続けていた。
「……四ツ谷さん。……三箇所目は、……もっと厄介なことになっていそうです」
冷泉が、窓のない地下で、遠い街の気配を読み取るように告げた。
「……ああ。……行くぞ。……薄められたら、……たまったもんじゃないからな」
夜の空気は、さらに冷え込み、彼らの「重み」をより鮮明に浮き彫りにしていた。




