第27話:偽証の器(デコイ)
事務所の電力が遮断され、地上二十階のフロアは深い闇に沈んでいた。
だが、その暗闇はかつてのような「聖域」の静寂ではない。四ツ谷・負債管理事務所が組織を道連れに自爆し、その機能が事実上停止したという噂は、飢えた獣たちが血の匂いを聞きつけるよりも早く、街の裏側へと浸透していた。
四ツ谷という絶対的な「ゴミ箱」が公の場から姿を消したことで、人々は行き場を失った。自分たちの醜い欲望、他者への執念、そして拭いきれない後ろめたさ。それらをどこへ捨てればいいのか分からず、正気を失うほどに「捨て場所」を渇望していたのだ。
「……九十九さん、予備の回線を繋ぎました。……街の『不利益』が、奇妙な偏りを見せています。……四ツ谷さんの名前を騙る、粗悪なコピーが乱立している」
冷泉の声が、月光に照らされた暗い室内で冷たく響いた。彼女の手元にあるポータブルモニターには、かつては存在しなかった無数の「負債管理」を謳う広告が、SNSや裏サイトの海を埋め尽くしている。
『四ツ谷の意志を継ぐ者』『真の負債消却所』『呪い代行・四ツ谷支部』。
それらはどれも、四ツ谷のような「穴」など持たない、ただの小悪党や、かつての組織の末端にいた残党たちが作り上げた「偽証の器」に過ぎなかった。
「……ケッ、死肉に群がるカラスどもが。……四ツ谷、お前が少しばかり人間らしい呼吸を取り戻してる間に、街は偽物の『穴』で溢れかえってやがんぞ。……あいつら、ただの詐欺じゃねぇ。本物の怨念を集めて、それを別の誰かに高値で売りつけたり、わざと暴走させて被害を大きくしてやがる。……『掃除』のルールも何もあったもんじゃねぇ」
九十九は、絶縁防護服を脱ぎ捨てた素手で、壁に掛けられた古い地図をなぞった。彼の指先が止まったのは、かつて自分たちがいた地下街とは別の、再開発から取り残された寂れた雑居ビル街だった。
四ツ谷は、ソファに深く沈み込み、自身の右胸に手を当てていた。
かつて彼を苛んでいたあの激痛は、組織との精算を経て、鈍い「重み」へと変わっていた。だが、冷泉が提示する「偽物の四ツ谷」たちの情報を目にするたび、彼の内側にある空洞が、不快な共鳴を繰り返していた。
本物が沈黙したことで、偽物が「救済」を語り、街の汚れをより醜悪にかき回している。それは、彼が人生をかけて飲み込んできた「ゴミ」というものに対する、耐え難い侮辱だった。
「……四ツ谷さん。一通の、直接的な依頼が滑り込みました。……いえ、これは依頼というより、悲鳴です」
冷泉が差し出したのは、紙の封筒だった。デジタルが死に絶えたこの事務所に、物理的な重みを持って届けられた言葉。
そこには、震える筆跡でこう記されていた。
『娘が、偽物の四ツ谷を頼ってしまった。……あの子が捨てたかったはずの悲しみを、あの男たちは「呪いの種」として育て、近隣にバラ撒いている。……助けてください。本当のゴミ箱があるなら、どうか、あの子を……』
四ツ谷は、ゆっくりと立ち上がった。
右半身の灰色は、剥がれ落ちた跡が黒いアザのように残っている。身体は重く、一歩歩くごとに肺が煤を吐くような喘鳴を上げる。だが、その瞳には、地下街で「代行屋」を始めた頃の、あの乾いた、しかし容唆のない光が戻っていた。
「……冷泉。……九十九さん。……精算は、まだ終わっていなかったな。……自分の名前が、……安い詐欺の道具に使われるのは、……癪に障る」
四ツ谷の声は、石を削るような無機質さを取り戻していた。
本物のゴミ箱が、偽物の穴が撒き散らした「偽証」という名の汚れを掃除しに行く。それは、もはや組織のためでも、社会のためでもない。ただ、自分たちの歩んできた凄惨な道のりを、これ以上汚させないための、誇りをかけた「外回り」の始まりだった。
「……九十九さん、現場の装備を確認してください。……相手は呪術の素人ですが、その分、扱っている悪意の『鮮度』が悪い。……二次感染を防ぐために、最高濃度の消却剤が必要です」
「へっ、分かってらぁ。……久しぶりに、現場の泥臭い仕事がしたくて体が鈍ってたんだ。……おい四ツ谷、その足で大丈夫か? ……最悪、俺が担いででも連れてってやるぜ」
三人は、月明かりに照らされた事務所を後にした。
エレベーターはすでに動かない。非常階段の無機質な階段を、一歩ずつ、夜の街へと降りていく。
足元に纏わりつく湿った風が、これから向かう場所の不潔さを予感させていた。偽物の光に群がる、真に救われない者たちが集う吹き溜まり。
四ツ谷の右胸の穴が、暗闇の中で静かに、だが深く拍動し始めた。




