第25話:強制執行の代償
事務所の空気は、物理的な衝突の前触れとは思えないほど、静止していた。
地上二十階、防音ガラスに守られた室内には、九十九が撒いた除菌剤の揮発する微かな音と、四ツ谷の肺が鳴らす乾いた喘鳴だけが響いている。
回収担当の男たちは、リーダーが四ツ谷に触れた瞬間に見せた動揺を、信じられないものを見るような目で見つめていた。だが、彼らは「専門職」だ。一度下された回収指示を、個人の体調不良や恐怖で撤回することはない。
「……手間取らせるな。一分遅れるごとに、この事務所の残存資産価値は損なわれる。……九十九、どけ。これは法的な手続きだ」
男たちが再び、四ツ谷のストレッチャーへと手を伸ばす。
だが、その手が四ツ谷の皮膚に触れる直前、室内のすべてのモニターが、同時に「白」く染まった。
「……手続きであれば、こちらでも完了しております」
冷泉の声が、冷徹に、そして滑らかに響いた。
彼女は一度も四ツ谷の方を振り返らない。ただ、デスクの上に置かれた数台の端末を、事務的な正確さで操作し続けている。彼女の眼鏡の奥で、無数のログデータが滝のように流れ落ちていた。
「……何をした」
リーダーの男が、自身のタブレットを確認し、絶句した。
「……組織のメインサーバーから、管理権限が……切り離されている? 馬鹿な、そんな権限は、理事会にしか……」
「……理事会の承認は、先ほど『システム上』で降りました。……四ツ谷・負債管理事務所を強制執行により解体する際、発生する二次的な不利益……すなわち、これまで四ツ谷さんが預かっていた数千件の『未処理データ』を、組織全体の負債として一括計上する手続きです」
冷泉が最後の一打を、エンターキーに叩きつけた。
その瞬間、都心の各所にある組織の関連会社、そのすべてのシステムに、一通のメールが届いた。
それは、過去二十年にわたり、四ツ谷が「穴」に閉じ込めてきた、組織の汚職、隠蔽、そして切り捨てられた人間たちの実名リストだ。
どこからも悲鳴は上がらない。
ただ、各地のオフィスで、役員たちの顔から血の気が失せ、電話機が一斉に鳴り始めた。
「どこから燃えたのか」を特定できない、静かな、だが逃れられない情報の炎が、組織の土台をじりじりと焼き始めていた。
「……貴様、正気か! こんなものを世に出せば、組織どころか、この事務所も、お前たちも、すべて……!」
「……ええ。共倒れです。……ですが、精算とはそういうものです」
冷泉は淡々と、自身の私物を小さな鞄に詰め始めた。
「……四ツ谷さんは、もう十分に働きました。……耐用年数を過ぎたとお仰るなら、その最後の『爆発』まで、責任を持って引き取っていただきます」
九十九が、絶縁バールを肩に担ぎ直し、廊下へ続く道を空けた。
「……おい、業者。……お前らの本社のサーバー、今ごろ熱暴走で溶け始めてんぞ。……掃除が面倒になるから、四ツ谷の回収はもう諦めるんだな。……これからの組織の後始末、一円の利益にもならねぇ最悪の現場になるぜ」
四ツ谷は、深く、重い呼吸を繰り返しながら、泥のような視線で男たちを見た。
彼の右胸の穴からは、もはや「吸引」する力は感じられない。ただ、そこからは、組織全体を飲み込もうとする「巨大な空白」が、音もなく溢れ出していた。
「……回収、……ご苦労……様」
四ツ谷の微かな言葉と共に、リーダーの男のタブレットが、過負荷によってプツリと消灯した。
男たちは、もはや四ツ谷に触れることすらできず、呪われた遺物から逃れるように、足早に事務所を後にした。
彼らが去った後、事務所には、かつてないほどの、そして残酷なほどの静寂が訪れた。
組織は今、この瞬間、社会的な「解体」のプロセスに入った。
冷泉が放った炎は、誰にも消せない。
「……精算、完了しました。……四ツ谷さん」
冷泉が初めて椅子を立ち、四ツ谷の横に立った。
「……ああ。……冷泉。……九十九さん。……コーヒーでも、……淹れてくれないか。……ひどく、……冷えるんだ」
窓の外、夜の都会は何事もなかったかのように輝き続けている。
だが、その輝きを支えていた巨大な因果の歯車の一つが、今、完全に粉砕された。




