第24話:不良債権の回収
事務所の空気は、不自然なほどに乾燥していた。
地上二十階。都心の夜景は相変わらず眩いが、室内の照明は電圧の不安定な揺らぎを繰り返し、四ツ谷の横顔に深い影を落としている。四ツ谷の肉体は、長年の過剰な「負債の引き受け」により、医学的な限界を迎えていた。右半身の肌は血色を失い、神経障害による麻痺と硬化が進行し、ひび割れた皮膚からはじわりと滲出液が漏れ出している。
右胸の「穴」は、かつてのような勢いで悪意を吸い込むことはない。ただ、そこに在るだけで周囲の電子機器にノイズを走らせ、四ツ谷が深く吐き出す呼吸は、肺の奥に溜まった澱みを吐き出すような、重苦しい喘鳴を伴っていた。
「……九十九さん。四ツ谷さんの血中酸素濃度が、再び危険域に入りました。……本来なら即座に入院させるべき数値です。ですが、彼が今背負っている『情報』を外部に持ち出すわけにはいかない」
冷泉の声は、乾いた事務的な響きを保っていた。彼女の指先は、キーボードを叩きながら、四ツ谷の身体データの推移を冷徹に監視している。
九十九は、清潔なガーゼで四ツ谷の首筋から漏れる体液を拭い取った。ガーゼには粘り気のある、鉄臭い汚れが付着する。
「……ああ、分かってら。……街中の『見たくない汚れ』を、一人で溜め込みすぎた。……おい、四ツ谷。意識はあるか。……勝手にシャットダウンするなよ。この事務所の精算、まだ終わってねぇんだからな」
四ツ谷は、鉛のように重い瞼をゆっくりと持ち上げた。瞳はひどく濁り、焦点は合っていない。
「……九十九さん。……耳鳴りが、止まらないんだ。……今まで処理した連中の、最期の言い訳が、……ずっと頭の中でループしてやがる……」
その時、入り口のドアが、ノックもなしに静かに開かれた。
入ってきたのは、かつて彼らを使い潰した組織の「回収担当」を名乗る男たちだった。リーダー格の男は、仕立てのいいスーツを着こなし、感情を一切排した事務的な所作で、一通の「最終通告書」を四ツ谷の膝の上に置いた。
「……四ツ谷・負債管理事務所。……本日をもって、当物件の占有権、および内部機材のすべてを組織が回収する」
男の声は、四ツ谷を「人間」としてではなく、耐用年数を過ぎ、場所代ばかりを浪費する「中古の設備」として扱っていた。
「……四ツ谷、君はもう『不良債権』だ。……その右胸の穴も、もはや正常な処理能力を維持できていない。……組織は、君を地下の管理施設へ戻し、内部に残存するデータの最終抽出を行った後、物理的な解体を行うことに決定した。……立ち退きの期限は過ぎている。大人しく引き取られてもらおうか」
冷泉が、椅子を引く音を立てて立ち上がった。
「……解体、だと? ……四ツ谷さんはまだ生きている。……貴方たちが垂れ流した不利益を、今この瞬間も、彼はその身一つで食い止めている。……それを価値のない廃品のように扱うつもりですか」
「人間としての価値を測っているのではない。……これは『減価償却』の問題だ」
男は冷酷に言い放ち、四ツ谷の硬化した右腕を、検品するかのように無機質な手つきで掴み上げた。
「……運べ。……自力歩行は不可能と判断。搬送用のストレッチャーを用意しろ。……地下で解体すれば、まだいくらかの『未処理の利権』は回収できるはずだ」
男たちが、四ツ谷を「モノ」として運び出そうとした、その時だった。
四ツ谷の喉の奥から、乾いた砂が擦れるような、低い笑い声が漏れた。
「……不良債権、か。……久しぶりに、……心にくる言葉を聞いたな」
四ツ谷の右胸の穴が、ピシ……ピシ……と、硬化した皮膚が軋む音を立てた。
「……あんたら、……俺を『モノ』だと思って計算してるようだが、……勘定を間違えてるぞ。……俺がこれまでに吸い込んだゴミの……『毒』が、どれほどこの肉体に回ってるか、……想像もつかないだろ」
四ツ谷が、震える左手で男の手首を掴んだ。
その瞬間、男の顔から血の気が失せた。四ツ谷の指先を通じて、彼がこれまで処理してきた「数千件の不正」と、それによって破滅した者たちの「記憶」が、暴力的な情報の濁流となって男の脳を直撃した。
「あ……が、あ、ああ……っ!」
男が喘ぎ、後ずさる。物理的な傷はない。しかし、男の瞳には、自分がかつて切り捨ててきた「数字」たちが、一斉に自分を見つめ返しているという、社会的な恐怖が焼き付いていた。
「……回収したいなら、……お前らの、その『数字』も……全部、食ってやるよ」
九十九が、絶縁処理された重いバールを手に取り、男たちの前に立ち塞がった。
「……へっ、待ってましたよ。……おい、回収業者。ここでの強引な運び出しは『現場の規約』に違反してんだよ。……お前らが持ってきたその書類、全部こいつの穴に放り込んで、ついでにお前らの『隠し口座』の記録も、全部ここで吐き出させてやる。……後処理が一番金かかるってことを、教えてやるよ」
静寂は、誰も叫ばない、しかし一歩も引けない泥沼の戦場へと塗り替えられた。
四ツ谷の右胸の穴からは、ドクン、ドクン、と……
組織の「最終的な破綻」を予兆するような、静かな、だが確かな鼓動が響き始めていた。




