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のろいだいこうや  作者: 五平


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第23話:認識の剥離(フェードアウト)

 事務所の空気が、かつてないほど「薄く」なっていた。

 全面ガラス張りの向こうに広がる都会の夜景は、以前よりも彩度を失い、まるで古い映画の背景画のように奥行きを欠いている。冷泉がデスクを叩く音は、水中から聞こえるように遠く、九十九が撒く除菌剤の匂いすら、鼻腔に届く前に霧散して消えた。


 四ツ谷は、ソファに座っている。

 だが、その姿は「そこに在る」という確信を、見る者から奪い去るほどに希薄だった。右半身の灰色は今や左胸まで達し、ひび割れた石膏のような肌からは、絶えず微細な灰が零れ落ちている。

 彼が前話で吸い込んだ「少女の厄災」の余波は、対象の存在意義を根こそぎ削り取るような社会的虚無となって、四ツ谷の肉体を内側から侵食していた。


「……九十九さん、四ツ谷さんの『顔』をよく見ておいてください。……油断すると、私たちが彼を『ただの置物』だと誤認し始めます。そうなれば、彼は二度と人間として機能しなくなる」


 冷泉の声には、隠しきれない焦燥が混じっていた。

 モニター越しに見る四ツ谷の姿は、解像度高く、鮮明に映し出されている。しかし、冷泉の脳はその映像を「重要ではない情報」として分類し、無意識に視線を逸らさせようとする。機械は嘘をつかないが、それを見る人間が、彼を認識することを拒絶し始めていた。


 九十九は、絶縁処理された特殊な朱肉を指につけ、四ツ谷の灰色の額に直接、荒々しく文字を書き込んだ。

「……分かってらぁ! だがな、冷泉、こいつは盛り塩やスプレーでどうにかなる代物じゃねぇ。……四ツ谷! 返事をしろ! お前、自分が今ここで何をしてるか、まだ分かってるか!」


 四ツ谷は、ゆっくりと瞼を持ち上げた。その瞳の中には、もはや瞳孔すら定かではない、深い霧が立ち込めている。

「……九十九さん。……俺の、声は、届いているか。……鏡を見ても、そこに誰かが立っているという実感が、……ないんだ」


 四ツ谷の声は、風の音に混じって消えてしまいそうなほどに細かった。

 そんな「消え入りそうな事務所」に、一人の客が迷い込んできた。

 気づけば、冷泉のデスクの前に、一人の男が立っていた。男は、上質なコートを着ているが、その表情には、死刑執行を待つ囚人のような、絶望的な諦念が張り付いている。


「……ここなら、私を『消して』くれると聞いた。……誰からも、見つからないように」


 男は、冷泉の顔を見ることなく、ただ虚空を見つめて呟いた。

 男はかつて、ある女性の人生を弄び、破滅させた。その女性は自ら命を絶つ直前、男に「一生、お前のことを見ている」という呪いの言葉を残した。以来、男は街を歩けば理由もなく人々に指をさされ、ネットでは顔写真が拡散し、見知らぬ通行人から「お前だろ」と囁かれるようになったのだという。


 それは、世界全体が男を「告発」し続けるという、社会的な呪縛だった。


「……ここに、いるぞ」


 四ツ谷が、灰色の右腕をゆっくりと持ち上げた。

 男は、何もなかったはずのソファの影から、突然、石像のように冷徹な異形が「意味」を持って立ち上がってきたのを見て、悲鳴を上げ、椅子から転げ落ちた。


「……貴方を消すのは、簡単だ。……今の俺が、貴方への『関心』を、すべて引き受ければいい」


 四ツ谷は男に近づき、震えるその肩に、灰色の手を置いた。

 四ツ谷の右胸の穴が、静かに脈動した。

 音はない。だが、男の全身から、他人からの「視線」や「監視」といった目に見えない不利益の糸が、物理的な重みを伴って引き摺り出され、四ツ谷の虚無へと吸い込まれていった。


 男の顔から、特徴が消えていくわけではない。造作はそのままだ。

 しかし、彼を「指名手配犯」や「憎むべき対象」として結びつけていた人々の脳内のリンクが、一斉に断ち切られていく。

 彼が街を歩けば、防犯カメラには記録され、警察官と肩がぶつかるだろう。しかし、誰も彼を「探している男」だとは思わない。ただの「風景の一部」として、人々の意識は彼を素通りする。


「あ、が……ああ、ああああ!」

 四ツ谷の右半身が、男から吸い取った「数万人分の悪意の視線」を一気に飲み込み、激しい拒絶反応を起こした。

 灰色の肌がひび割れ、中から黒い光が漏れ出す。

 四ツ谷は、男の代わりに、世界中の「お前を見ているぞ」という執念の視線を、その全身で、たった一人で受け止め始めた。


 ドサリ、と男が床に倒れ込んだ。

 九十九も冷泉も、もはやその男が「そこにいる」ことを意識し続けるのが困難になっていた。

 男は確かにそこにいる。記録にも残っている。だが、彼の存在は「道端に落ちている石ころ」と同等まで認識の優先順位を落としていた。


「……施工、完了だ」

 四ツ谷の声が、誰もいない空間に響く。

 男は立ち上がり、ふらふらと事務所を出て行った。彼はもう、誰にも見つからない。警察も、かつての知人も、彼が目の前を通り過ぎても、それを「探すべき人間」として認識することはないだろう。彼は、生きたまま世界から「意味」を奪われたのだ。


 静寂が戻る。

 四ツ谷は、膝から崩れ落ちた。

 彼の姿は、監視カメラには克明に映り続けている。しかし、冷泉はその映像を見ながら、「何も異常はない」と確信して目を背けそうになる自分を、必死に律していた。


「……四ツ谷さん! 答えてください!」

 冷泉が、四ツ谷の胸ぐらを掴んだ。


「……冷泉。……俺、いま……世界に、忘れられていくのが、……心地いいんだ」


 四ツ谷は、灰色の指先で、自分の顔をなぞった。

 鼻がある。口がある。だが、自分自身ですら、それが「自分のパーツ」であるという確信が持てない。


「……バカなこと言うな! まだ仕事の精算が終わってねぇぞ!」

 九十九が叫び、四ツ谷の背中に、特大の「存在を繋ぎ止める」ための絶縁符を叩きつけた。


 認識の剥離。

 それは、誰からも「特別」に見られなくなるという究極の平穏であり、同時に、二度と誰とも「意味」を共有できないという、この世で最も孤独な生存への助走であった。


 四ツ谷の胸の穴からは、カチ、カチ、と……

 世界の終わりを待ち侘びるような、不吉な秒読みだけが、以前よりも大きく響き渡っていた。


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