第22話:未定義の厄災
事務所の「波形」が、突如として凪いだ。
あらゆる不吉をデータ化し、ドブネズミの死骸から国家の汚職までを「処理すべき汚れ」として捉えてきた四ツ谷の感覚が、真っ白な空白を叩き出したのだ。
それは静寂というより、鼓膜の奥を針で刺すような、不快な圧迫感を伴う無音だった。
「……九十九さん、除染を止めてください。意味がありません。……これは、いつもの連中とは『出処』が違う」
四ツ谷の声は、冷え切った鋼鉄のような響きを湛えていた。
彼の右半身を覆う灰色の変質は、すでに喉元を分厚く覆い、首を動かすたびに不快な軋み音を立てる。彼は動かなくなった瞳を据えたまま、右胸の「穴」の奥で、その空白の正体を測ろうとしていた。
「……ケッ、機械の故障かよ。冷泉、このモニター、何も映ってねぇぞ」
九十九が叩いた液晶画面には、ノイズすら走っていない。ただ、深い霧のような乳白色が画面を埋め尽くしている。
「故障ではありません、九十九さん。……四ツ谷さんの感覚が、解析を拒絶しているんです。……対象が、既存の『恨み』や『執着』の定義から外れている」
冷泉が指し示した監視カメラの映像。
そこには、ビルのロビーで所在なげに佇む、一人の少女が映っていた。
どこにでもいる、ごく普通の制服を着た少女だ。恨みを抱えている風でも、呪いを纏っている風でもない。だが、彼女が歩くたびに、周囲の防犯センサーが理由もなく誤作動を起こし、通り過ぎる人々が、自分でも気づかぬうちに、持っていた大切な荷物を「落として」いく。
「……あの子だ」
四ツ谷が、重い体を引きずるようにして立ち上がった。
彼が動くたびに、大理石の床がミシミシと沈み込み、目に見えない質量の塊が移動するように、室内の空気が歪む。
「……あの子の周りには、恨みも、殺意もない。……ただ、圧倒的な『欠陥』がある」
ドアが開いた。カウベルは鳴らない。鳴るための「物理的な必然」が、彼女の周囲で剥がれ落ちているかのようだった。
少女は、四ツ谷の異様な姿を見ても驚かなかった。ただ、大きな瞳で彼を見つめ、困ったように眉を下げた。
「……ここに来れば、私の『おまけ』を、取ってくれるって聞いたから」
彼女の言葉が響いた瞬間、四ツ谷の右胸の穴が、かつてない悲鳴を上げた。
熱い。吸い込んだものを処理できない。
彼女が言う「おまけ」とは、誰かの呪いなどという生易しいものではなかった。
それは、彼女が生まれたときから背負わされている、周囲の「偶然」を無差別かつ無自覚に破壊してしまう、純粋な体質――「未定義の厄災」だった。
「……四ツ谷さん、離れてください!」
冷泉が叫ぶが、遅かった。
少女が四ツ谷の灰色の手に触れた瞬間、事務所の全面ガラスが、衝撃音もなく「砂」となって崩れ落ちた。
窓の外から吹き込む突風が、室内の書類を巻き上げる。だが、その風すらも少女の周囲では意味をなさず、重力が狂ったように什器が浮き上がる。
「……ああ、これだ」
四ツ谷の喉から、苦悶の混じった音が漏れた。
「……誰のせいでもない。理由がない。……ただ、この子がそこにいるだけで、世界の『理屈』が削れていく。……俺が食ってきたゴミとは、格が違う」
四ツ谷は、少女の細い肩を、動かなくなった右腕で強引に引き寄せた。
彼の「穴」が、少女の「厄災」を吸い込み始める。
これまでの呪いは、食えば腹が膨れた。
だが、この子の厄災は、吸い込んでも吸い込んでも、四ツ谷の中を素通りし、彼の肉体そのものを「摩耗」させていく。
四ツ谷の右半身の灰色が、さらに広がり、ついに左側の胸元にまで侵食を始めた。皮膚が裂け、中から血ではなく、乾いた灰のような粉末が溢れ出す。
「あ、が……あ、ああああ!」
四ツ谷の咆哮と共に、事務所内の什器が、一つ、また一つと、存在の輪郭を失って「機能」を停止していく。パソコンはただの鉄の塊になり、電球はフィラメントが消滅して暗闇が広がる。
九十九は、自身の防護服がボロボロに風化していくのを見て、冷泉を抱えて廊下へと退避した。
「四ツ谷! 止めろ! それは食い物じゃねぇ、毒ですらねぇ『虚無』だ! お前が消えちまうぞ!」
四ツ谷は、九十九の声を聞いていなかった。
彼は、少女の「おまけ」を吸い込むことで、自分自身の存在すらも「不確かなもの」へと削り取られていく激痛に、商売人としての意地で耐えていた。
数分後。
爆発音もなく、光もなく、ただ事務所の中に「不自然な空白」が訪れた。
壊滅した事務所の真ん中に、少女は一人、呆然と立っていた。
彼女の周囲を覆っていた「削るような気配」は、一応の沈静を見せていた。
そして四ツ谷は、床に膝をつき、激しく喘いでいた。
彼の右半身は、もはや人間としての色を完全に失い、ひび割れた石膏のような無機質な質感に変わっていた。右胸にあった「穴」は、以前よりも一回り大きくなり、そこからは一切の音が聞こえない、完璧な「真空」が口を開けていた。
「……四ツ谷、さん……」
冷泉が、粉塵の舞う室内へ、恐る恐る足を踏み入れた。
四ツ谷は、動かない右腕を左手で抱え、少女を見上げた。
「……お嬢ちゃん。……あんたの『おまけ』、半分預かったぞ。……残りは、あんたが自分で、抱えて生きていくんだな」
少女は、自分の手がもう何も壊さないことを確かめるように握りしめ、深々と頭を下げて去っていった。
静寂が残る。
四ツ谷の胸の穴からは、カチ、カチ、と……以前よりもずっと乾いた、死を刻むような不規則な音が響いていた。
未定義の厄災。
それは、四ツ谷が「人間」としての限界を超え、物理的な法則すらも吸い込む「本物の化け物」へと一歩近づいてしまった、取り返しのつかない取引だった。




