第21話:不吉の予測(アナリティクス)
事務所の床に投影された、ホログラムの都市図。
かつては冷泉が入力したデータに基づいて機能していたその地図は、今や四ツ谷の右胸が発する「波形」と同期し、おぞましい赤黒い血管のように明滅していた。
査定人の理性を飲み込み、四ツ谷の感覚は「統計」の領域へと変質していた。もはや個人の恨みの声を聴く必要すらない。彼には、この街の数百万人が無意識に吐き出す「嫌な予感」が、実体を持ったグラフのうねりとして視認できていた。
「……九十九さん。その盛り塩の配合を変えてください。……西新宿の三丁目付近で、急激な『絶望の飽和量』が観測されました。……雨が降りますよ。血のように鉄臭い、不快な雨が」
四ツ谷の声には、もはや震えも迷いもない。
右半身の灰色は、今や喉元を越えて唇の端まで侵食し、彼の言葉は重厚な石板を削り取るような無機質な響きを湛えている。彼はソファに座ったまま動かず、ただ右胸の「穴」を、都市の病理を吸い上げる吸入口として開放していた。
「……ケッ、予報士にでもなったつもりかよ」
九十九は、絶縁防護服の継ぎ目をテープで補強しながら、不機嫌そうに背負った噴霧器を弄った。
「だが、お前の言う通りだ。さっきから窓の外、カラスの死骸が降り始めてやがる。……冷泉、次の『客』は、この不吉なグラフを止めてほしいってのか、それとも……」
「……加速させてほしい、というご依頼です」
冷泉の指先が、空中に浮かぶデータを弾いた。
「依頼主は、大手デベロッパーの裏理事。……西新宿の再開発計画を完遂させるため、立ち退きに応じない一帯を、物理的な破壊ではなく『不吉』によって自主的に放棄させたい、とのことです」
その瞬間、事務所の空気が一気に凍りついた。
ドアが開く。入ってきたのは、仕立ての良いスーツを纏いながらも、その周囲だけ光が屈折したように歪んでいる、初老の男だった。
男は四ツ谷の異形を恐れる風もなく、むしろ崇高な芸術品を見るような悦楽の表情で、その右胸の穴を見つめた。
「……素晴らしい。……君なら、この街の『流れ』を自在に弄れるはずだ。……あの古い商店街に、誰もが逃げ出したくなるような絶望を注ぎ込んでくれ。……代償は、政府の特別会計から、君たちの活動資金として無尽蔵に流し込もう」
四ツ谷は、ゆっくりと首を横に振った。
「……俺は、蛇口じゃない。……俺は、排水溝だ」
四ツ谷が立ち上がると、彼の足元から影がドロリと広がり、ホログラムの都市図を侵食していった。
「……あんたが言ってるのは、ゴミを動かして別の場所に捨てるだけの話だ。……だが、俺の穴は、そんな器用なことはできない。……俺が動けば、その場所の『因果』が消える。……商店街だけじゃない。その周辺の土地、記憶、そして……あんたの野心そのものもな」
四ツ谷の右胸の穴が、一際大きく脈動した。
バチバチ、と火花が散り、事務所内のサーバーが過負荷で白煙を上げる。
四ツ谷が見ている「予測グラフ」の波形が、男の心臓の鼓動と同期し始めた。
「……何を……何をしようとしている!」
男が後退り、九十九にぶつかる。
「……あんたの抱えている『不吉』が、一番美味しそうだったからな。……先に、こっちを片付けてやる」
四ツ谷が灰色の右手を男の胸にかざした。
その瞬間、男の背後にある窓ガラスの外に、巨大な「影の渦」が発生した。
地上二十階の窓を叩くのは、もはやカラスの死骸だけではない。男がこれまで再開発の名の下に踏み潰してきた、数千人の住人たちの「行き場を失った記憶」が、四ツ谷の穴に向かって怒涛の勢いで雪崩れ込んだ。
「あ、が……あ、あああああ!」
男が絶叫する。
だが、彼の肉体は傷つかない。ただ、彼の中にある「成功への確信」や「未来への展望」といったポジティブな感情のすべてが、四ツ谷の虚無によって根こそぎ吸い取られていく。
「……分析完了だ」
四ツ谷が手を下ろすと、男はその場に力なく崩れ落ちた。
男の瞳からは、先ほどのギラついた野心が完全に消え失せ、ただ「これから何が起きても、自分は不幸になる」という、絶対的な予感だけが刻み込まれていた。
「……四ツ谷さん。依頼の完遂、および……報酬の強制徴収、完了しました」
冷泉が事務的に報告する。
「……彼には、一生分の不運を前借りで与えておきました。……これからは、彼が触れるすべての計画が、理由もなく瓦解することになるでしょう」
九十九が、床に散らばった男の私物を蹴っ飛ばした。
「……ケッ、不吉の予測ねぇ。……結局、お前が一番の不吉そのものじゃねぇか、四ツ谷」
四ツ谷は、再びソファに沈み込み、窓の外を見つめた。
雨が降り始めていた。
鉄臭い、街の汚れをすべて溶かし出すような重い雨だ。
四ツ谷の脳内には、次の不吉の予兆が、また新しいグラフとなって描かれ始めていた。
不吉の予測。
それは未来を当てることではなく、未来から「希望」という名の贅肉を削ぎ落とし、純粋な絶望だけを残すための、非情な計算だった。




