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のろいだいこうや  作者: 五平


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第20話:理性の侵食

 事務所の窓を叩くのは、雨ではない。それは四ツ谷の右胸から染み出す「虚無」が、空気中の水分を凍らせ、微細な塵としてガラスを削る音だった。

 十九話での狂信者たちとの接触を経て、四ツ谷の肉体はいよいよ臨界点を迎えていた。灰色の硬質化は顎のラインまで達し、彼が口を開くたびに、古い墓石が擦れ合うような重苦しい音が部屋に響く。


 冷泉は、新しく運び込まれた特殊仕様のモニターに、一つの「警告」を映し出した。

「……九十九さん、除染はもう意味をなしません。……敵は、呪詛の塊を投げつけてくるような非効率な連中ではなくなりました」


 九十九が、防護服のヘルメットを脱ぎ捨て、不快そうに顔を歪めた。

「……分かってらぁ。さっきから、この階の空気が『軽すぎる』んだ。四ツ谷が吸い取ってるんじゃない。何かが、この部屋の因果そのものを、化学式みたいに分解してやがる」


 ドアが開いた。

 カウベルの音は鳴らない。音を立てる権利すら奪われたかのように。

 入ってきたのは、灰色のスーツを完璧に着こなした、眼鏡の男だった。彼は四ツ谷たちを「人」として見ていない。実験動物のケージを確認する学者のような、徹底して無機質な視線。


「……株式会社『コーザル・清算』の査定人と名乗っておきましょう。……元・組織の資産管理部門、と言えば話が早いでしょうか」


 男は、冷泉のデスクの前に、薄いタブレットを一冊置いた。

 そこに映し出されていたのは、四ツ谷がこれまでに処理してきた「負債」のリストではない。それらを数値化し、法的に「存在しないもの」として処理するための、膨大な計算式と契約書だった。


「……四ツ谷様。貴方の『穴』は、非科学的ですが、実に有用な廃棄物処理場だ。……ですが、あまりに属人的すぎる。組織は、貴方のその能力を、物理的な『演算機ハードウェア』として再定義することに決定しました」


 冷泉が、ペンを置いた。

「……演算機? 四ツ谷さんは人間です。……それも、貴方たちの失敗をすべて引き受けている、唯一の器だ」


「人間。……その定義も、因果の清算の前には無意味です」

 査定人の男が指を鳴らした。

 その瞬間、事務所内の空気が、キィィィンという耳を裂くような高周波に包まれた。


 四ツ谷が、ソファの上でのけ反った。

 彼の右胸の穴から、これまでに吸い込んできた「執念」が、黒い体液ではなく「文字列」となって溢れ出し始めた。

 

 男が持ち込んだのは、呪術ではない。

 この街に溢れる悪意や怨念を、データとして「解体」し、四ツ谷の右脳が保持している過去の記憶を、物理的な情報バイナリとして強制的に書き換える「理性の侵食」だった。


「あ、が……ああ……っ! ……見ろ、冷泉……。……俺の中の……あいつらが、数字に……変わっていく……!」


 四ツ谷の絶叫が、ノイズ混じりの電子音に変換される。

 九十九が絶縁ナイフを手に査定人へ飛びかかろうとしたが、男の周囲にある「不可視の防壁」に弾き飛ばされた。


「無駄ですよ。これは法的な手続きに近い。……四ツ谷様の『負債』は、今この瞬間をもって、組織の共有資産として凍結されました。……彼の記憶、感情、苦痛。それらはすべて、街の因果を最適化するための『演算資源』として、これから永遠に再利用されます」


 四ツ谷の肉体が、急速に色を失っていく。

 灰色の無機質な物質が、ついに彼の顔の半分を覆い、瞳からは感情の灯が消え、冷たいモニターのような光が宿り始めた。


「……四ツ谷さん!」

 冷泉が、自身の掌をカッターで切り裂き、その血を四ツ谷の右胸の穴へと叩きつけた。

「……思い出してください! 貴方はゴミ箱じゃない! 貴方は、対価を受け取る『商売人』だ!」


 冷泉の「生きた血」が、四ツ谷の穴の中で火花を散らした。

 無機質な計算式の海に、一滴の、あまりにもドロドロとした「個人の執着」が混ざり込む。

 

 四ツ谷の瞳の奥で、再び黒い火が灯った。

「……査定人……。……俺の負債を、計算したと、言ったな……」


 四ツ谷が、灰色の右腕をゆっくりと持ち上げた。

 彼の腕からは、もはや包帯ではなく、黒い配線のような血管が蛇のように伸び、査定人の男のタブレットに直接突き刺さった。


「……なら、お前のその『理屈』も……俺の穴に、入れてやるよ。……割り切れない不利益の、余り(あまり)としてな」


 四ツ谷の穴が、猛烈な勢いで「理性」を吸い込み始めた。

 査定人の男が、初めて表情を崩した。彼の周囲の「防壁」が、計算不能な四ツ谷の苦痛によって内側から食い破られていく。

「……バカな! 因果の定式化は完璧だったはずだ! ……なぜ、これほどのノイズが……!」


「……不運ってのはな、計算通りにはいかねぇんだよ」

 九十九が床を這いながら、査定人の足元に、かつての地下街で使っていた「ドジョウの汚泥」をぶちまけた。

 

 科学的な演算機が、最も苦手とする「原始的な嫌悪」と「四ツ谷の非論理的な執念」が混ざり合い、事務所内に巨大な回路ショートを引き起こした。

 

 ドォォォォォンという、魂を揺さぶるような音。

 査定人の男は、自身の持っていたタブレットと共に、白く漂白されたような廃人となってその場に膝をついた。彼の「理性」は、四ツ谷の底なしの虚無に触れ、一瞬でゼロ除算されたのだ。


 ……静寂が戻った。

 四ツ谷の顔の半分を覆っていた灰色は、首元まで引き、右胸の穴は再び静かに、だが以前よりもずっと深い闇を湛えて拍動していた。


「……冷泉。……俺、今……あいつの理屈を食ったせいで、……この街の『不吉な予感』が、グラフで見えるようになった気がするよ」


 四ツ谷の声は、以前よりも透き通り、そして残酷だった。


「……四ツ谷さん。それは、貴方の理性が侵食された結果です」

 冷泉が、事務的に割れた眼鏡を捨てた。

「……次のお客様は、そのグラフの『頂点』にいる方です。……国家予算規模の、絶望を抱えた方が、既に入り口にいらっしゃいます」


 理性の侵食。

 それは、四ツ谷が「人間」であることをやめ、より効率的な「呪いの処理機」へと堕ちていくための、不可逆な儀式であった。


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