第19話:依り代の聖域(サンクチュアリ)
地上二十階のオフィスは、今や一つの「観測所」と化していた。
全面ガラス張りの向こうに広がる都会の夜景は、一見すればこれまでと変わらぬ光の海だが、四ツ谷の瞳が捉えるそれは、無数の黒い糸が血管のように絡まり合った、巨大な病巣の蠢きであった。
事務所の空調は、もはやその機能を喪失していた。設定温度とは無関係に、四ツ谷の右胸から染み出す「虚無」が、物理的な熱量を一方的に奪い去り、室内の観葉植物は一晩で真っ黒に枯れ果て、大理石の床には霜が降りたような白い結晶が浮き上がっている。
四ツ谷は、革張りのソファに鎮座したまま、三日間一度も動いていなかった。
その右半身は、もはやスーツの生地の上からでも分かるほど無機質な灰色に変質し、石を削り出した彫像のような静止を保っている。彼は食事を摂らず、瞬きもせず、ただ深く沈み込むような呼吸を繰り返すたびに、喉の奥から古い氷が軋むような音を響かせていた。
「……九十九さん、除染のペースを上げてください。四ツ谷さんの周囲三メートルが、現実から『欠落』し始めています」
冷泉が、事務机に並べた数台のモニターを見つめながら、鋭い声で命じた。
九十九は、絶縁処理された重厚な防護服に身を包み、高純度の塩とアルコールを混ぜた特殊な液体を床に撒き散らしていた。
「……ケッ、分かってらぁ! だがな、冷泉、こいつはもう掃除の域を超えてるぜ。四ツ谷が吸い込みすぎた『不利益』が、熟成しすぎて新しい形を成そうとしてやがる。……見ろよ、このモヤを」
九十九が指差す先、四ツ谷の頭上に、見たこともない色の「霧」が滞留していた。それは紫と黒が混ざり合い、油膜のように不気味に揺らめきながら、時折、苦悶に歪む人間の顔のような文様を描き出している。
その時、事務所の入り口にある、重厚なオーク材のドアが、ノックもなしに静かに開かれた。
カウベルの音すら響かない、不自然なほどの静寂を伴った侵入。
入ってきたのは、白い法衣のような装束を纏った、五人の男女であった。彼らの表情には一切の感情が欠落しており、その瞳は、深海魚のように虚ろで底知れない光を宿している。
「……ようやく、見つけました」
先頭に立つ、糸のように細い体躯の男が、四ツ谷に向かって深々と頭を下げた。その所作は優雅でありながら、どこか生物としての節度を欠いた、機械的な正確さを帯びていた。
「……偉大なる、因果の終着点。あらゆる負債を飲み込み、世界を空っぽに洗い流す……生ける聖域」
冷泉が、椅子から立ち上がることなく、氷のような視線を男に向けた。
「……予約のないお客様は、お引き取りください。ここは事務所であって、貴方方のような『呪い崇拝者』の礼拝堂ではありません」
「これは失礼を、冷泉様」
男は懃懃に微笑んだが、その瞳は一度も冷泉を見ていなかった。彼の視線は、釘付けになったように四ツ谷の右胸の「穴」に吸い寄せられている。
「我々は『無帰属の会』。この世に溢れる不利益を、あるべき場所――すなわち『完全なる無』へと帰すことを目的としています。……四ツ谷様。貴方は、我々が数千年の間探し求めてきた、究極の依り代です」
男がそう告げた瞬間、四ツ谷がゆっくりと顔を上げた。
彼の瞳は、もはや人間のそれとは似ても似つかない、光を一切反射しない黒い硝子玉のようであった。
「……俺を……神だとでも、言いたいのか」
四ツ谷の喉から発せられた声は、複数の音階が重なり合った不協和音となり、室内のガラス窓を一斉に震わせた。
「神などという卑俗な言葉では足りません。貴方は『大いなるゴミ箱』です」
男は狂喜に満ちた声を張り上げ、両手を広げた。
「世界は汚れすぎました! 人々の怨念、嫉妬、執着……それらが溢れ出し、もはや誰にも止められない。……四ツ谷様、貴方がすべてを飲み込んでくだされば、世界は救われる。……さあ、我々が用意した『最高の供物』を、その穴に注がせてください!」
男の合図と共に、背後の信者たちが、抱えていた黒い漆塗りの箱を一斉に開いた。
中から溢れ出したのは、何百人分もの「呪いの結晶」であった。古い髪の毛、血に染まった土、怨嗟の言葉が書き殴られた紙片、そして――それらすべてが、物理的な形を失い、ドロドロとした黒い泥流となって、四ツ谷へと殺到した。
「……やめろ……!」
九十九が絶縁ナイフを手に飛び出したが、信者たちが放つ異様な「静止の気配」に阻まれ、金縛りにあったように動けなくなる。
黒い泥流が、四ツ谷の右胸の穴に直撃した。
バチバチ、と火花が散り、四ツ谷の背後にある全面ガラスに巨大な亀裂が走る。
四ツ谷の肉体が、内側から引き裂かれるような音を立ててのけ反った。
吸い込まれるのは、単なる悪意ではない。この狂信者たちが、長い年月をかけて収集し、培養してきた「純化された呪詛」だ。それは、特定の標的を持たない、ただ「破壊」のみを目的とした純粋なエネルギーであった。
「あ、が……あああああああ!」
四ツ谷が咆哮する。
彼の右胸の穴が、一瞬、青白い光を放って膨張し、次の瞬間、周囲の空間を巻き込んで内側へと爆縮した。
信者たちの法衣が、その引力によって剥ぎ取られ、室内の什器が、紙細工のように四ツ谷の虚無へと吸い込まれて消えていく。
「……素晴らしい……! これぞ、真の救済だ!」
男が叫ぶ中、冷泉はデスクの下から、かつて地下で使っていたあの「絶縁鏡」を取り出し、四ツ谷に向けて掲げた。
「四ツ谷さん、同化しないで! 彼らは、貴方を『穴』として完成させることで、この街全体を心中させるつもりです!」
四ツ谷の脳内に、爆発的な情報の濁流が流れ込む。
救われたいと願う狂気。
すべてを消し去りたいという絶望。
それらが、彼の「最初の願い」の残骸と混ざり合い、激しい化学反応を起こす。
四ツ谷は、震える左手で、自身の右胸の穴を強引に「掴んだ」。
「……神だの、救済だの……、そんなものは、他所でやれ」
四ツ谷の声が、重力を伴って響いた。
「……俺は、ただの……代行屋だ。……ゴミを預かる代わりに、対価をいただく。……お前たちの支払う対価は……その『信仰』そのものだ」
四ツ谷の「穴」が、反転した。
吸い込んでいたエネルギーを、一気に「無」へと変換し、その衝撃波を正面の男たちに叩きつけた。
衝撃波を浴びた狂信者たちは、悲鳴を上げることすらできず、その存在そのものが「漂白」されるように白く染まり、その場に崩れ落ちた。彼らの瞳から狂気の光が消え、代わりに、何も考えられない、何も信じられない、空っぽの抜け殻のような廃人へと変貌した。
……静寂が戻る。
壊れた窓から、夜の冷たい風が吹き込み、舞い上がった灰をさらっていった。
四ツ谷は、再びソファに沈み込んだ。
彼の右半身は、今や胸元から首筋にかけて、完全に灰色の硬質な物質に覆われていた。
「……九十九さん。……掃除を」
四ツ谷の声は、以前よりもずっと遠く、冷たい。
「……ああ、分かってらぁ。……ったく、神様扱いなんてのは、商売上がったりだぜ」
九十九は毒づきながら、抜け殻になった信者たちを、まるでゴミのように廊下へ引き摺り出していった。
冷泉は、割れたモニターを片付けながら、四ツ谷の右胸を見つめた。
そこにある穴は、以前よりも一回り大きくなり、その奥底からは、もはやこの世の音ではない、何かが絶えず「啜る」ような、不気味な音が聞こえていた。
依り代の聖域。
それは、救いを求める者が最後に辿り着き、そして自らの魂を「無」へと捧げる、最も静かで、最も凄惨な墓場であった。




