第18話:反転する記憶
事務所の空調が、不気味な低温を刻み続けていた。
設定温度をどれだけ上げても、四ツ谷の右胸から染み出す「冷え」を止めることはできない。吸い込みすぎた情報の残滓が、彼の肉体の中で腐敗し、現実の解像度を少しずつ歪めていた。
「……九十九さん、事務所の隅を見てください。……また、出ています」
冷泉の声が、凍りついた空気の中で硬く響いた。
九十九が振り返ると、応接室の隅、何も置いていないはずの空間に「ノイズ」が走っていた。古いブラウン管テレビが故障したときのような、砂嵐の影。それは次第に人の形を成し、かつての地下街の店舗にあった、あの古びた木製の椅子へと変質していく。
「……へっ、情報の逆流かよ。四ツ谷が食ったあいつの『記憶』が、俺たちの知ってる『風景』を依り代にして、勝手に受肉し始めてやがる」
九十九は、懐から絶縁処理された盛り塩の塊を取り出し、その影に向かって叩きつけた。だが、塩は影を通り抜け、乾いた音を立てて大理石の床に転がるだけだった。
四ツ谷は、革張りのソファに深く沈み込み、自身の右胸を左手で強く圧迫していた。
包帯の隙間から、青白い光が漏れている。それは電気信号のような、それでいて神経を逆なでするような不快な明滅だった。
「……冷泉、来るな。……俺の中の『穴』が、反転している。……これまで吸い込んできたゴミが、俺自身の記憶と混ざり合って、……『外』へ出たがっているんだ」
四ツ谷が苦しげに喘ぐと、事務所の全面ガラスに、見たこともない風景が映し出された。
地上二十階の夜景が、泥にまみれた「かつての地下街」の路地へと書き換えられていく。エレベーターのチャイム音が、誰かの悲鳴に変わり、シュレッダーの音が、骨を砕く音へと変質した。
「……四ツ谷さん、意識をこちらに繋ぎ止めてください!」
冷泉が叫び、四ツ谷の額に手を当てる。
その瞬間、冷泉の脳内に、爆発的な情報の濁流が流れ込んだ。
それは四ツ谷の過去ではなかった。
第17話で食らった経営者の、不正の記憶。
第15話で飲み込んだ大臣の、隠蔽の記憶。
それらが、四ツ谷が幼い頃に抱いた「誰かを救いたい」という純粋な願いの残骸と混ざり合い、一つの巨大な「化け物」となって、応接室の中央に実体化しようとしていた。
……現れたのは、四ツ谷自身に似た、だが全身が「文字と数字」で構成された異形の影だった。
影の顔には目がなく、代わりに古いダイヤル式の電話機が埋め込まれている。その受話器から、これまで事務所で処理してきた数千人の「言い訳」が、洪水のように溢れ出した。
『……悪気はなかったんだ……』
『……こうするしかなかった……』
『……あいつが悪いんだ……』
「……うるさい……黙れ……!」
四ツ谷が咆哮した。
彼が右胸の包帯を完全に引き剥がすと、そこにある「虚無の穴」が、吸い込むのではなく、内側から「闇」を噴射した。
絶対的な無の圧力が、情報の化け物と衝突する。
事務所内の精密機器が次々と爆発し、火花が舞う。九十九は、床を這いながら、四ツ谷の足元に特殊な絶縁回路を打ち込み、暴走するエネルギーの接地を試みた。
「……四ツ谷! 過去に喰われるな! お前は、今この瞬間の『ゴミ箱』なんだよ!」
四ツ谷の右腕から、黒い血管のようなものが蛇のように伸び、化け物の首に巻き付いた。
情報の影が、四ツ谷の「虚無」によって、一文字ずつ削り取られていく。
受話器から漏れていた数千人の声が、一斉に断末魔へと変わり、最後には静かなノイズとなって消滅した。
……静寂。
事務所の照明が弱々しく復旧し、書き換えられていた風景が、元の冷たい大理石のオフィスへと戻っていく。
四ツ谷は、汗と黒い体液にまみれて床に倒れていた。
彼の右胸の穴は、かつてないほど大きく広がり、その周辺の皮膚は、もはや人間のものではない、灰色の無機質な物質に置き換わっていた。
「……冷泉。……俺、さっきの化け物の中に、……俺の『最初の友だち』の顔を見た気がするんだ」
四ツ谷の声は、凍りついた空気を震わせるほどに弱かった。
「……気のせいです、四ツ谷さん」
冷泉が、血の滲んだ唇を噛み締め、事務的に告げた。
「……それは、貴方が食った情報の断片が、貴方の脳を騙しただけです。……貴方に過去はありません。……あるのは、管理されるべき『現在の不利益』だけです」
九十九は、壊れた機器の後片付けをしながら、外の夜景を見つめた。
地上二十階の窓の外、都会の夜の闇は、以前よりもずっと深く、そして不自然なほど「静か」になっていた。
四ツ谷が記憶を吸い込むたびに、世界の過去は一歩ずつ消滅していく。
反転する記憶。
それは、未来を救うための処置ではなく、世界を「空っぽ」にするための、終わりの始まりだった。




