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のろいだいこうや  作者: 五平


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第17話:情報の受肉

 その日の「負債」は、物理的な形を持たず、光ファイバーの網を伝って事務所に転がり込んできた。

 全面ガラス張りのオフィスを照らす朝日が、一人の男の憔悴しきった横顔を無慈悲に暴き出している。IT企業の若き経営者である彼は、九十九が差し出した高級な水にすら手を触れず、ただ震える手で自身のタブレットを冷泉へと突きつけた。


「……消えないんです。どれだけ削除依頼を出しても、警察を動かしても。……まるで生き物みたいに、増殖し続けている」


 冷泉が事務的に画面を覗き込む。そこには、ある「告発」の投稿が、秒単位で何万回もリポストされ、不気味なほどの速さでネットの海を黒く染めていく様が映し出されていた。

 内容は、男が経営する会社による、大規模な個人情報の流出と隠蔽。だが、問題はその中身ではなかった。投稿に添付された動画の中で、男の背後にある鏡に「いるはずのない女」が映り込み、視聴者が動画を再生するたびに、その女が少しずつカメラに向かって近づいてくるのだという。


「……情報の受肉、ですね」

 冷泉の眼鏡が、モニターの青白い光を反射して冷たく光る。

「単なるデータではありません。この投稿には、貴方に切り捨てられた何万もの顧客の『不利益』が、一つの意志として固着しています。……閲覧されるたびに、人々の好奇心という名のエネルギーを吸って、この影は実体を得ようとしているのです」


「頼む、消してくれ! このままだと、動画の女が画面から出てきて……私の首を……!」


 応接室の奥、四ツ谷は一脚の黒い椅子に、石像のように座っていた。

 彼の右胸にある「穴」は、室内のデジタル機器すべてと共鳴し、スピーカーからは「ノイズ」ではない、数千人の囁き声のような不快な低周波が漏れ出している。


「……九十九さん、回線を遮断しろ。……この男の影が、サーバーを通じて俺の穴を覗き込んでいやがる」


 四ツ谷の声が響くと同時に、オフィスの照明が一斉に明滅し、壁に並んだモニターに、あの動画の女の顔が同時に映し出された。

 女は、まだ実体を持たない情報の塊のはずだった。だが、四ツ谷という「負債の吸引口」を前にしたことで、彼女は爆発的な加速をもって、この場に「現れよう」としていた。


「へっ、これこそが現代の呪いってやつか。藁人形よりもよっぽどタチが悪いぜ」

 九十九が、懐から特殊な「絶縁スプレー」を取り出し、オフィスのネットワーク端子に直接吹きかけた。バチリと青白い火花が散り、サーバーが沈黙する。

 だが、女の姿は消えなかった。


 男のタブレットの画面が、内側から激しくひび割れた。

 そこから、ぬるりとした「黒い液体」のようなものが溢れ出し、大理石の床に滴り落ちる。それはインクのようでありながら、嗅いだこともない「古い情報の焦げる匂い」を放っていた。


「……おいで」

 四ツ谷が、ゆっくりと立ち上がった。

 彼が右胸の包帯を緩めると、その「穴」から、一切の光を吸い込むような絶対的な引力が解き放たれた。


 床に広がった黒い液体――受肉しつつあった情報の怪異が、断末魔のような電子音を立てて、四ツ谷の胸へと吸い寄せられていく。

 オフィスのガラスが、外側からの圧力でミシミシと軋み、男のスマートフォンのバッテリーが異常な熱を発して膨れ上がる。


「あ、が……あああああ!」

 四ツ谷の右半身が、青白い静電気を帯びながら激しく震える。

 情報の怪異は、数万人の「憎しみの拡散」という運動そのものだ。それを一人で吸い込むことは、滝を逆流させるような無理を強いる。


「……四ツ谷さん、無理をしないで! 情報をすべて食う必要はありません、その『起点ソース』だけを潰せば……!」


「……ダメだ、冷泉。……一度放たれた情報の不利益は、……ゴミ箱には収まらない。……俺が、ゴミ箱の底そのものになるしかないんだ」


 四ツ谷の右胸の穴が、一瞬、オフィスの全電力を飲み込んだかのように強く輝き、そして――すべてを吸い尽くした。


 沈黙。

 男のタブレットは、ただの真っ黒な板へと戻り、ネット上の投稿も、まるで最初から存在しなかったかのように、すべてのサーバーから「欠番」として消滅した。

 

 男は、救われた喜びよりも、目の前で起きた「消滅」の恐怖に、ただガタガタと震えていた。

「……消えた……? 私の、あのアカウントも、会社のアドレスも……全部……」


「……ええ。代償です」

 冷泉が、事務的に契約書を片付けた。

「貴方の不利益を消すために、四ツ谷さんは貴方の『デジタルな存在』そのものを食い潰しました。……今この瞬間から、貴方はこの世界において、一切の電子的な足跡を持たない存在となりました。……銀行口座も、戸籍データも、すべてのネットワークが貴方を拒絶します」


 男は、絶叫しながらオフィスを飛び出していった。

 それは、呪いによる死よりも残酷な、現代社会からの「完全な抹消」だった。


 九十九が、床に残った黒い染みを無言で拭き取った。

「……四ツ谷。お前、大丈夫か? 髪の毛、また白くなってんぞ」


 四ツ谷は、動かなくなった右腕を左手で支え、窓の外に広がる、無数の情報が飛び交う夜景を見つめた。

「……ああ。……情報ってのは、肉よりもずっと腹に溜まるな。……九十九さん。……俺の中には、今、あいつの人生の全データが入っている。……あいつが隠したかった秘密も、全部、俺の穴の中で、まだ動いているんだ」


 四ツ谷の胸の奥から、カチ、カチ、と、またあの壊れた時計の音が聞こえてきた。

 だが今度は、それに混じって、誰かの「着信音」が、彼の肉体の内側で鳴り続けていた。


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