第10話:のろいだいこうやの正体
地下街のどん詰まり。その店を包む湿気は、もはや雨の日のそれではなく、誰かの喉の奥で沸き上がる湿った吐息のような粘り気を帯びていた。
四ツ谷の状態は、誰の目にも終わりが近いことを示していた。右半身の硬直は今や喉元まで這い上がり、彼が言葉を発するたびに、喉の奥で乾いた泥が崩れるような嫌な音が響く。包帯の隙間からは、絶えず黒い「視線」のような影が漏れ出し、店内の壁を無目的に這い回っていた。
「……四ツ谷、もういい。座ってろ。……冷泉、今日の客は俺が追い返してやる」
九十九が、震える手で鳥籠の掃除を中断し、四ツ谷の肩を強引に押さえた。
しかし、冷泉はスチールデスクから動かなかった。彼女は、四ツ谷の右半身から漏れ出す「澱」を、まるで理科の実験を観察するような冷徹な目で見つめ、事務的に告げた。
「……追い返せません。十人目のお客様です。彼女は、自分が誰かを呪っているのではなく、自分の『影』が勝手に他人を傷つけていると仰っています」
店の引き戸が、弱々しく開いた。
入ってきたのは、十代半ばの、制服を着た少女だった。彼女は自身の足元を、怯えた目で見つめている。彼女の影は、店内の不自然な光の下で、まるで泥のようにドロドロと溶け出し、時折、牙を剥く獣のような形に歪んでいた。
「……助けて。……私、誰も嫌いじゃないのに、私の影が、学校の友達を……」
少女が泣き崩れると同時に、四ツ谷の右半身が、凄まじい勢いで脈動した。
「あ、が……あ、ああ……っ!」
四ツ谷の喉から、少女の影と共鳴するような、獣の咆哮が漏れる。
「……四ツ谷、やめろ! そいつに触れるな!」
九十九が叫ぶが、四ツ谷は磁石に吸い寄せられる鉄屑のように、ふらふらと少女へと歩み寄った。
「……四ツ谷さん。貴方は、何が見えていますか」
冷泉の声が、静かに、だが鋭く店内に響いた。
「……見えている。……この街全体の、ゴミ溜めだ。……この子の影は、この子が作ったんじゃない。……この地下街に溜まった、数万人の『吐き捨てられた悪意』が、出口を求めて、この子に流れ込んでいるんだ」
四ツ谷は、少女の影を、自身の右半身で強引に「吸い込み」始めた。
店内の空気が、爆発的な負の重圧で歪む。
「……いい加減にしろ、冷泉!」
九十九が冷泉の襟首を掴み、怒鳴りつけた。
「四ツ谷が死ぬぞ! なんでこんな無理な依頼ばかり通しやがる! お前の目的は何だ!」
冷泉は、九十九の手を冷たく振り払った。
「……目的? 私は、業務を完遂しているだけです。……九十九さん。貴方は、この店がなぜ『地下街のどん詰まり』に、しかも定期的に場所を変えて存在しているのか、本当に考えたことがないのですか?」
冷泉は、デスクの引き出しから、一枚の古い図面を取り出した。
そこには、この街の因果の流動図――いわば「呪いの下水管」の設計図が描かれていた。
「……ここは、代行屋ではありません。……ここは、『最終処分場』です」
冷泉の言葉に、九十九の動きが止まった。
「この街には、毎日数え切れないほどの呪いと、身勝手な怨念が溢れています。それらは消えません。どこかに溜まるしかない。……この店は、その下水の末端に設置された『フィルター』なんです。そして、四ツ谷さん……貴方は、そのフィルターの『芯』として、組織によって選ばれた存在なのですよ」
四ツ谷は、少女の影を吸い込み続けながら、血を吐くように笑った。
「……ハ、ハハ……。……やっぱり、そうだったか。……代行屋なんて、ただの、看板だったんだな」
「ええ。依頼人が来るのは、フィルターの目詰まりを防ぐための『圧力調整』に過ぎません。……四ツ谷さん。貴方の右半身が石のように硬いのは、貴方がこの街数百万人の『汚れ』を、一人で受け止め続けている証拠です。貴方が死ねば、この街の因果は逆流し、阿鼻叫喚の地獄絵図が完成する」
冷泉の瞳には、もはや事務的な冷徹さすらなく、ただ深淵のような「諦念」だけが宿っていた。
「……私たちは、英雄ではありません。ただの、ゴミ処理場の管理人です」
少女の影は、すべて四ツ谷の体内に消えた。
少女は気を失い、九十九がそれを抱きかかえた。
四ツ谷は、もはや原型を留めないほど肥大化した右半身を引きずり、隅の回収箱に縋り付いた。
「……九十九さん。……俺が、壊れる前に、……誰かが、この蓋を、代わらなきゃ、ならないんだな」
「馬鹿野郎、そんなこと言わせねぇぞ……!」
九十九の声は震えていた。
店内の「回収箱」が、かつてない激しさで鳴動を始めた。
箱の中から、数千人の声が重なり合い、四ツ谷の名を呼んでいる。
『……四ツ谷……さあ、こちらへ……。お前が、俺たちの……新しい『家』になるんだ……』
四ツ谷は、震える左手で、自身の右胸に刻まれた「紋様」を強く掻き毟った。
そこには、彼が子供の頃、誰かを救いたいと願ったときに刻まれた、最初の「呪い」の傷跡が、今も赤黒く脈打っていた。
「……冷泉。……俺が、最後の一滴まで、吸い尽くしてやるさ。……それが、この商売の……正体なんだろう?」
地下街のどん詰まり。
店の看板が、不吉な赤色に染まっていく。
三人の関係は、もはや仕事仲間でも、運命共同体でもなかった。
ただ、壊れゆく「蓋」を見守り続ける、葬儀の参列者に過ぎなかった。




