第1話:のろいだいこうや、開店しました
その店は、昨夜までは確かに、湿った路地裏のコインランドリーの隣にある、ただの空き家だったはずだった。
ところが朝、近隣の住人が目を覚ますと、そこには以前からそこにあったかのように、ひどく馴染んだ面構えの平屋が建っている。看板には、剥げかかった墨文字でこう書かれていた。
『のろいだいこうや』
その下には、申し訳程度に付け加えられたような一文。
『―― 呪われたい人、承ります(※ただし自己責任)』
建物の外壁は、湿った土のような色をしており、窓ガラスは内側から黒い布で覆われている。入り口の引き戸は、開ける前から「ギィ……」と、不吉な音が脳内に直接響いてくるような、そんな佇まいだった。
午前十時。
まだ誰も通らないはずの路地に、一人の女が立っていた。二十代後半、清潔感はあるが、その瞳の奥には、煮詰まった澱のような暗い光が宿っている。女は震える手で、その引き戸を引いた。
店内に、カウベルの乾いた音が響く。
だが、そこには開店を祝う花もなければ、客を歓迎する空気もない。ただ、段ボールが積まれたままの殺風景な板間に、場違いなほど事務的なスチールデスクが置かれているだけだった。
「いらっしゃいませ。予約のお客様ですね」
スチールデスクの向こう側に座っていたのは、一ミリも霊感を感じさせないほど冷淡な、だが整った顔立ちをした女――冷泉だった。彼女は事務的な眼鏡を指で押し上げ、目の前の書類に視線を落としたまま、顔も上げずに問いかける。
「……ここ、本当に、代わりに……受けてくれるんですか」
女の声は、掠れていた。
「正確には、代行いたします。お客様が誰かを呪いたいとお考えなら、その『手順』を私どもが管理し、付随する『不測の事態』を処理する。それが私どもの商売です。冷泉さん、お名前と、お相手の特定情報を」
冷泉の背後から、音もなく一人の男が現れた。
黒いスーツを纏い、およそこの世の者とは思えないほど血色の悪い、だが端正な顔立ちをした男――店主の四ツ谷だ。彼は、右半身をわずかに引きずるようにして歩き、空いている椅子を女に勧めた。
「相手は、元カレです。浮気して、私を捨てて、今あいつ、別の女と幸せそうに笑ってるんです。それが許せなくて。不幸になればいい。事故にでも遭えばいい。死ななくていいから、一生立ち直れないくらい、惨めになればいい」
女の口から溢れ出した言葉は、粘り気のある毒のようだった。
冷泉はそれを、まるでお役所の申請書類でも書くかのように淡々とキーボードで打ち込んでいく。
「元カレ、二十八歳、会社員。現住所は特定済みですね。九十九さん」
部屋の隅、暗がりに蹲っていた小柄な老人が、ガサガサと音を立てて立ち上がった。技術担当の九十九だ。彼は、使い古されたボストンバッグから、一羽の白いセキセイインコが入った籠を取り出した。
「アンケートのフリして、ツラは拝んできたよ。……ヘッ、幸せ太りしやがって。いい『種』が蒔けそうだわ」
九十九の言葉に、依頼人の女はびくりと肩を揺らした。
「……何ですか、その鳥」
「安全弁ですよ」
四ツ谷が、感情の抜け落ちた声で答える。
「素人が呪いなんてものに手を出すのは、防護服も着ずに猛毒を扱うようなものです。呪えば必ず、自分に返ってくる。それを私どもが、この鳥に……あるいは別の『穴』に逃がしてやる。それを含めての料金です」
冷泉が、スッと一枚の紙を差し出した。
「メニューです。三つのコースからお選びください。呪いの『深度』と、私どもの『処理』の手間に応じて価格が変わります」
そこには、古風な書体でこう記されていた。
* 梅: 対象に日常的な不運(軽微な怪我、紛失物、体調不良)を与える。
* 竹: 対象の生活基盤(失職、社会的信用の失墜、重い病)を毀損させる。
* 松: 対象の存在そのものを、因果の彼方へ追いやる。
「……梅でいいです。まずは、あいつが惨めになるのを見たいから。四千円……え、これだけ?」
「それは、何もやらない場合の基本料金です」
冷泉が、釘を刺すように言った。
「般若心経を唱えて、おまじない程度のパフォーマンスで満足されるならそれで結構です。ですが、本当に『効かせたい』のであれば、こちらの実費をいただきます」
提示された金額は、女の貯金の数ヶ月分に相当した。しかし、彼女は迷わなかった。震える手で財布を取り出し、机の上に万札を並べていく。
「……お願いします。あいつを、壊して」
四ツ谷が、ゆっくりと目を閉じた。
右半身の痺れが、じわりと熱を帯び始める。それは、かつて彼が多くの因果を飲み込み、引き受けてきた「汚れ」の疼きだった。
「九十九さん、準備を」
九十九が、鳥籠を四ツ谷の足元に置いた。
冷泉は、ストップウォッチを取り出し、時間を計測し始める。
「施工を開始します。依頼人様、この藁人形を持ってください。中には、九十九が先ほど回収してきた、お相手の毛髪と……執着の『種』が入っています」
女は、不格好な藁人形を握りしめた。
四ツ谷が、低い声で念じ始める。
それは、宗教的な祈りでも、美しい呪文でもなかった。ただ、空気を重く、粘り強く変質させるような、不快な低周波の響きだった。
「……打ちなさい」
女は、九十九から渡された五寸釘を、人形の胸に当てた。
重い金槌の音が、狭い店内に響き渡る。
一度、二度。
その瞬間、店内の空気が一変した。
窓を覆う黒い布が、激しく波打つ。
誰もいないはずの天井から、ミシミシと何かが這い回るような音が降り注ぎ、依頼人の女の首筋に、冷たい「視線」が突き刺さった。
「っ……あ……!」
女が、恐怖に顔を歪める。
呪い返しだ。
素人が放った怨念が、行き場を失い、最も近い「穴」である依頼人へと逆流しようとしていた。
「逃がしませんよ」
四ツ谷が、右手を女の肩に置いた。
その瞬間、女に向けられていた「視線」の矛先が、強引に四ツ谷へと手繰り寄せられる。
四ツ谷の頬が、一瞬で土色に変わり、呼吸が荒くなる。
「九十九、今だ!」
九十九が、鳥籠の覆いを取り払った。
セキセイインコが、激しく羽ばたき、短い悲鳴を上げる。
パチン、と。
電球が弾けるような乾いた音がして、インコは止まり木から落ち、動かなくなった。
同時に、店内の嫌な静寂が、スッと消え去った。
四ツ谷は、激しく咳き込みながら、膝をついた。
「……フゥ、フゥ……。処理、完了です」
冷泉が、ストップウォッチを止める。
「呪い返しのバイパス成功。所要時間、三分四十二秒。……四ツ谷さん、大丈夫ですか。右手の震え、止まっていませんよ」
「……いつものことだ。気にするな」
依頼人の女は、何が起きたのか分からず、呆然と立ち尽くしていた。
「……終わった、んですか?」
「ええ。一週間もすれば、お望みの結果が出るでしょう」
冷泉が、領収書を差し出した。
「彼は、注意力が散漫になり、幻聴に悩まされ、やがて自らの不注意で、望んでいたものを失う。私どもは『背中を押した』に過ぎません。……ああ、その藁人形はこちらで処分します。お忘れなきよう」
女は、何かに憑き物が落ちたような、それでいて空っぽになったような顔をして、店を出ていった。
後に残されたのは、三人の重苦しい沈黙だけだった。
「……ケッ、危ねぇところだったな。四ツ谷、お前、反応が遅れてるぞ。昔なら、インコを一羽殺すまでもなかったはずだ」
九十九が、死んだ鳥をゴミ袋に放り込みながら吐き捨てた。
「……そうかもな。……冷泉、次の客は」
「三十分後です。次は『竹』のコース、不倫相手の家庭崩壊だそうです」
冷泉は、四ツ谷の震える右手を見ようともせず、淡々と次の資料を整理し始めた。
「……商売、繁盛だな」
四ツ谷は、痺れる右半身をさすりながら、無理やり笑った。
看板だけは新しくしたが、中身はボロボロだ。
かつての組織が潰れ、泥水をすするようにして再開したこの店に、プロの誇りなど残っていない。あるのは、他人の不幸を食い物にし、自分たちの命を切り売りする、終わりのない「業務」だけだった。
地下街の隅。
今日も、誰にも知られることなく、看板の墨文字が湿り気を帯びていた。
―― 呪われたい人、承ります。
次のお客様は、あなたかもしれません。




