第8話 朝の侵入、支配のマーキング
秋休み二日目の朝は、音から始まった。
――ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン。
規則正しいチャイムではない。焦りと執着を混ぜたような、途切れない押し方。眠りの薄い膜を乱暴に引き裂く音だった。
「……誰だよ、こんな時間に……」
瀬戸悠真は枕に顔を埋めたまま唸った。スマホを見る気力も出ない。カーテンの隙間から差す光は薄い。早朝だ。休日だ。起こされる理由がない。
居留守。
その三文字が脳内に浮かび、悠真は布団を頭まで引き上げた。チャイムなんて、無視してればそのうち諦める。たいていはそうだ。
――ピンポーン、ピンポーン。
諦めない。
何度も繰り返される音に、悠真は眉をひそめた。近所迷惑という言葉が浮かんで、居留守の正当性が揺らぐ。いや、でも知らない相手だ。関わらない方がいい。
そう思ったとき、廊下で足音がした。
父の足音だ。
「……やめろ、父さん」
悠真は小声で悪態をついた。離婚の騒動以来、父は妙に神経が過敏になっている。チャイムに反応してしまう。何かあったのかと不安になる。だから先に出てしまう。
玄関の鍵が回る音。
ドアが開く音。
そして、そこから聞こえてきたのは――意外なほど、和やかな声だった。
「はい、どちらさ――」
父の声が途中で止まる。戸惑いの間。相手を見て、予想と違ったという沈黙。
次に響いたのは、澄んだ少女の声だった。
「お久しぶりです。突然すみません。……瀬戸さんのお宅で合っていますか?」
丁寧な言葉遣い。礼儀正しい声。朝のチャイム連打の主とは思えない落ち着き。
父が、少し困ったように笑った気配がした。
「ああ、合ってるよ。君は……ええと……」
知らない。
父は彼女が誰か分からない。
悠真は布団の中で目を開けた。嫌な予感が、背中の内側を這い上がる。
玄関の声が続く。
「冬月凛華です」
その名が、はっきりと発音された瞬間。
悠真の眠気は、完全に消えた。
「……っ」
凛華。
昨日、森で泣いて、家に連れて行って、連絡先を聞き忘れて――その凛華。
まさか、今ここに?
玄関で父の声が明らかに変わった。記憶の扉が開いたような声。
「……冬月? 冬月って……あの、凛花ちゃんか!」
父が笑う。驚きと懐かしさが混ざった声。
「大きくなったなあ……! いやあ、本当に。久しぶりだ」
「はい。おじ様も、お変わりなく」
凛華の声は、礼儀正しいまま穏やかだ。まるで昨日の森の涙なんて、最初から存在しなかったみたいに。
悠真は布団の中で固まった。
――なんで、父さんに会ってるんだよ。
――なんで、家に来てるんだよ。
ここは自分の部屋で、自分の家で、逃げ場のはずだった。秋休みは、静かにやり過ごすはずだった。
なのに玄関はもう開かれている。
悠真の“城門”は、父の手であっさり開いてしまった。
「それで……どうしたんだ? こんな朝早く」
父の問いに、凛華は一瞬も迷わず答えた。
「悠真に用事があって」
息が止まる。
父が「そうかそうか」と笑う気配がした。父は疑わない。いや、疑えない。幼馴染という言葉が、父の中では“安全”に分類されるのだろう。
「悠真、起きてるかな」
父の声が廊下に向かって近づく。
「……起きてない。起きてないから帰って」
悠真は布団の中で念じた。念じても現実は変わらない。
廊下の足音が二人分になる。
父と、凛華。
悠真の部屋の前で立ち止まる気配。
父がノックする。
「悠真ー。起きてるか?」
「……」
返事をしなければ、まだ間に合う。寝たふりを貫けば、父も凛華も引き下がる――はずだ。
だが、次の瞬間、父が言った。
「凛花ちゃんが来てるぞ」
その一言で、寝たふりの意味が消える。
なぜなら、“来てしまっている”からだ。ここまで来て、放置するのは逆に不自然になる。父の前で、自分は無視できない。
悠真は歯を食いしばって、布団から顔だけ出した。
「……なに」
声が掠れている。寝起きの男の声。最悪だ。
ドアの向こうで、凛華が息を吸う気配がした。
「開けて」
命令じゃない。丁寧な一言。なのに、拒否できない圧がある。
父が「じゃ、俺は下でコーヒーでも淹れてくるか」と笑って去っていく足音がした。残されたのは、ドアの向こうの凛華の気配だけ。
悠真は渋々、ベッドを抜けた。髪はぼさぼさ。パジャマのまま。部屋は片付いていない。転校してきたばかりで段ボールも残っている。
こんな状態を見られたくないのに。
鍵を開け、ドアを開く。
そこに凛華が立っていた。
制服ではない。私服の上に薄いカーディガンを羽織り、髪はきっちり整っている。黒髪ロングが朝の光を吸って沈む。顔はいつも通り白く、瞳は冷たい印象のまま。
――学校の“高嶺の花”の顔。
昨日泣いていた人と、同一人物に見えない。
凛華は、当たり前のように一歩踏み込んだ。
悠真の部屋の中へ。
時計を見ると、まだ七時前だった。
「……おはよう」
凛華は淡々と言った。
「……おはよう、じゃないだろ」
悠真は呆れた声で言った。けれど凛華は眉一つ動かさない。悠真の部屋にいることが、最初から当然だという顔をしている。
「用件」
凛華が言う。
悠真が黙ると、凛華は短く言い切った。
「昨日、聞き忘れた。連絡先」
その言葉が、あまりにシンプルで、逆に怖い。
昨日まで凛華は、誰にも冷淡な“高嶺の花”だったはずだ。寝起きの男子の部屋に、朝七時前に侵入してくるような行動力を持っている存在ではない。
なのに、目の前にいる。
冷静な顔で、当然のように。
悠真は、喉の奥が乾くのを感じた。
「……普通、学校で聞くもんじゃないの」
「秋休み」
凛華の返答は一言。
「……だから?」
「休み明けまで待てない」
凛華は淡々と言った。淡々としているのに、その内容が重い。
待てない。
それは、ただの“早く知りたい”ではない。もっと切迫した言葉だ。会えない空白が耐えられない、という種類の。
悠真は言い返せなかった。
なぜなら、自分も昨日、帰り道で「連絡先を聞き忘れた」と気づいていたからだ。悔やんでいた。けれど自分から動くほどの情熱はなかった。動く前に眠ってしまっていた。
凛華は動いた。
その差が、気味悪いほどはっきりしている。
「スマホ」
凛華は自分のスマホを取り出し、画面を悠真に向けた。QRコードが表示されている。準備が良すぎる。
悠真は渋々、自分のスマホを探した。枕元。画面を点ける。寝起きの指先がもたつく。
「……はいはい」
友達追加の画面を開き、QRコードを読み取る。
“冬月凛華”。
表示された名前に、悠真は少しだけ呼吸が詰まった。文字として見ると、現実感が増す。昨日の涙が、今日の侵入と繋がってしまう。
登録ボタンを押す。
凛華のスマホが小さく振動した。通知。凛華はそれを確認し、目を伏せて微笑んだ。
柔らかい微笑み。
けれど、その笑みの奥にあるものを、悠真はまだ言語化できない。
「……これでいいだろ」
悠真が言うと、凛華は頷いた。
「うん」
間が落ちる。
用件が終わったなら、帰るはずだ。普通なら。けれど凛華は帰らない。部屋の中を見回すわけでもなく、悠真の顔だけを見ている。
悠真は落ち着かなくなった。
「……なに」
凛華の視線が、悠真の肘へ落ちた。昨日絆創膏を貼った場所。朝の光に、白い絆創膏がやけに目立つ。
凛華は一歩近づき、距離を詰めた。
「見せて」
「……は?」
「腕」
命令ではない。お願いの形をしている。だが拒否できる空気じゃない。
悠真はため息をつき、袖を少しまくった。絆創膏の下は赤い擦り傷。腫れてはいない。痛みもそこまでない。
凛華は、それを見て、目を細めた。
「……よかった。腫れてない」
安堵の声。
悠真はそれを“優しい心配”だと受け取った。幼馴染が心配してくれている。そういう温かい話に分類したかった。
「だから大丈夫だって言っただろ」
「大丈夫でも、確認しないと」
凛華の言い方は、妙に確信的だった。確認しないと安心できない。それは優しさの形をしているけれど、別の何かにも似ている。
凛華は少しだけ視線を落とし、申し訳なさそうな表情を作った。
「……今日、このあと用事があるの」
「用事?」
「友達と。駅前で」
外面用の予定。昨日の電話の相手だろう。凛華は“円満な人間関係”を維持するために、断らない。
凛華は続ける。
「本当は、今日ずっとここで様子を見ていたかったんだけど……」
その言葉は、甘い形をしていた。
“心配だから、そばにいたい”。
悠真の中で、そう翻訳された。普通なら照れる台詞だ。優しい幼馴染の台詞だ。
けれど、凛華の瞳には――別の色が混ざっていた。
焦燥。
監視できないことへの苛立ちに近いもの。
その色が一瞬だけ覗いて、すぐに隠れる。凛華は表情を整え、学校の“高嶺の花”の顔に戻る。
「……別に、様子なんて見なくていい」
悠真が言うと、凛華の目が僅かに細くなった。
「だめ」
短い否定。
「……なんで」
「傷、いじったらだめ」
「いじらないって」
「信用できない」
言い切った。
悠真は言葉を失った。信用できない、という言葉は重い。冗談として言うには鋭すぎる。けれど凛華の顔は真面目だ。冗談を言っている顔じゃない。
凛華は一歩引き、出口の方へ向かった。帰るのかと思った瞬間、凛華は振り返り、悠真のスマホを指差した。
「通知、切らないでね」
声は柔らかい。言い方も優しい。けれど目が笑っていない。
「私が送ったら、すぐ見てほしいな」
“ほしいな”という語尾は甘い。
けれど、その甘さは飴ではなく、糸みたいに絡みつく甘さだった。
悠真は曖昧に笑って誤魔化そうとした。
「……そんな大げさな」
凛華は動かなかった。
部屋の空気が凛華に支配される。時間が止まる。悠真が何か言うまで、この場は動かない。そういう沈黙。
悠真は、背中に冷たい汗が滲むのを感じた。
――これ、冗談じゃない。
そう思ったときには、遅い。凛華の視線が悠真を縛っている。
悠真は観念した。
「……分かった。切らない」
凛華の表情が、すっとほどけた。
満足したように、微笑む。
「うん。ありがとう」
言い終えると、凛華は嵐みたいに去っていった。玄関で父に礼儀正しく挨拶し、「お邪魔しました」と言い、靴を履き、ドアが閉まる音がした。
家の中が静かになる。
悠真はしばらく立ち尽くした。今起きたことが現実だと、脳が追いつかない。
朝七時前。
寝起きの部屋。
侵入。
連絡先交換。
通知を切るなという釘。
何なんだ。昨日の再会は、こんな方向に転がるはずじゃなかった。
悠真はベッドに倒れ込んだ。もう一度寝て、なかったことにしたい。夢だったことにしたい。
スマホを枕元に置き、目を閉じる。
数分。
――ぶる。
スマホが震えた。
「……は?」
悠真は目を開け、画面を見る。
『今、家を出たよ』
短文。
次の瞬間、また震える。
『傷、絶対にいじっちゃダメだよ』
また。
『痛かったら言って』
また。
『朝ごはん食べた?』
短文が、連投される。
悠真の胸の奥が、じわじわと締め付けられた。
物理的には離れている。凛華はもう家にいない。玄関の外へ出ていった。駅前へ向かっているはずだ。
なのに。
画面の向こうから、凛華の気配だけが張り付いてくる。
まるで、横にいるみたいに。
まるで、離れることを許さないみたいに。
悠真はスマホを握りしめ、しばらく動けなかった。
これを“献身”と呼ぶのか。
それとも――
まだ、答えは出ない。
出ないまま、悠真の指先は画面の上で止まり続ける。
通知の振動だけが、静かな部屋に鳴り続けていた。




