閑話 一章エピローグ
玄関の外が、もう薄暗くなっていた。
門のところで立ち尽くしたまま、凛華は“そこ”を見ている。悠真が角を曲がって消えた先――もう見えるはずもないのに、視線だけが置き去りになっている。
帰った。
そう、分かっている。分かっているのに、受け入れたくない。受け入れてしまうと、胸の奥の何かが冷たくなる気がした。
「凛華〜? いつまで外にいるの」
背後から、母の声がした。玄関灯の下に恵子が立っている。買い物袋を片手に、いつも通りの軽い調子だ。
「……別に」
凛華は返事をしたつもりだったけれど、声は自分でも驚くほど小さかった。恵子は気にしないで笑う。
「別に、ねえ。別にって顔じゃないけど?」
言いながら、恵子が玄関に上がる。靴を脱ぐ音、袋を置く音。生活の音が、凛華の沈黙を撫でていく。
凛華はやっと身体を動かし、ゆっくりと家に入った。
玄関には靴が揃っている。父の靴、母の靴、自分の靴。三足が、いつも通りに並んでいる。
“いつも通り”。
その言葉が、胸に刺さる。今日の出来事が、いつも通りの枠に収まるはずがないのに。
恵子はキッチンへ向かいながら、振り返って言った。
「手、洗いなさいよ。……いや〜しかし」
そして、その“しかし”に、にやけた笑いが混じった。
「青春だったねえ」
水を出す音がする。食器が触れ合う音。泡立つ音。台所の明るさが、家の空気をいつも通りに戻していく。
凛華は廊下の途中で立ち止まり、もう一度玄関の方を見た。ドアは閉まっている。外の冷気は遮断されている。悠真は、もういない。
――行かないよ。
あの言葉が耳の奥で反響する。反響して、鼓膜の裏に貼りつく。
恵子の声が、キッチンから飛んできた。
「袖掴んで歩いてる凛華、初めて見たわ」
「違う」
凛華は即答した。反射に近い。
「怪我」
「はいはい、“怪我”ねえ」
恵子の声は笑っている。水音の中に、くっきりと混じる明るさ。凛華はその明るさが、少しだけ苦しかった。
自分は今、笑える場所にいない。
凛華は洗面所で手を洗い、リビングを横切ってキッチンに入った。恵子は皿を洗いながら、肩を揺らしている。楽しそうだ。からかうのが好きな母にとって、今日は格好のネタなのだろう。
「お母さん、もうその話やめて」
「だって面白かったんだもん。凛華があんなに慌てるなんて」
「慌ててない」
「慌ててた」
恵子は容赦がない。泡のついたスポンジを持ったまま、ちらっと凛華を見る。
「だいたいさあ。凛華、“高嶺の花”なんでしょ? 学校で」
「……うるさい」
「なのに家では、ああなるんだ」
恵子が楽しそうに笑う。凛華は反論したかったのに、言葉が出なかった。
家では、ああなる。
そうだ。家では、ああなる。悠真の前では、どうしても仮面が維持できない。冷たい女の子を演じる余裕がない。胸の底の焦りが、表面に滲む。
恵子は洗い物を続けながら、何気ない調子で言った。
「……で?」
その一言が、軽すぎて、怖かった。
「連絡先は聞いたの?」
凛華の呼吸が止まった。
水音だけが続く。蛇口の一定の音。皿が触れる音。泡がはじける音。その全部が、急に大きく聞こえる。
凛華は口を開こうとして、閉じた。
聞いていない。
今日の頭の中は、血と、消毒と、家と――“今すぐ”でいっぱいで、連絡先なんて発想が後ろに押しやられていた。
恵子が振り返る。目が丸くなる。
「え、まさか聞いてないの?」
冗談みたいなトーンだ。笑っている。けれど凛華は笑えない。
「……」
「うっそでしょ。今どき!」
恵子は肩をすくめた。
「まあでも、いいじゃない。休み明けに聞けば」
泡を流す音が、さらさらと続く。
「学校で会うんだし。ね?」
凛華は、その言葉を頭の中で反芻した。
休み明け。
秋休みの終わり。
数日先。
恵子にとっては“すぐ”の範囲だ。大したことじゃない。会えない日が数日あるだけで、世界が終わるわけじゃない。
でも凛華にとっては違う。
会えない空白は、空白じゃない。
そこには“消える可能性”が詰まっている。
会えないうちに、悠真がどこかへ行ってしまったら?
会えないうちに、また何かが起きてしまったら?
会えないうちに、悠真が「やっぱり無理」と思ってしまったら?
凛華は喉の奥がきゅっと縮むのを感じた。
「……休み明け」
言葉が勝手に漏れた。復唱するみたいに。
恵子はにやけたまま、冗談を投げる。
「なに、その顔。会えないと死ぬの?」
笑い声が混じる。台所の明るい冗談。普通なら、凛華もため息をついて「くだらない」と返すはずだった。
でも今日は、返せなかった。
冗談が、冗談のまま届かない。
凛華は視線を落とした。手のひらが少し冷たい。さっきまで袖を掴んでいた指先が、まだ空っぽだ。
そして、胸の底の言葉が、音になってしまった。
「……行かないって言った」
呟くような声だった。
けれど台所の空気が、ほんの一瞬だけ変わった。
恵子の手が止まる。
水音が、一拍だけ途切れる。
泡のついた皿を持ったまま、恵子が凛華を見る。その笑みが、ほんの一瞬だけ消えた。目の奥の光が、別の記憶を掬い上げるみたいに揺れる。
凛華はその揺れに気づかない。気づく余裕がない。凛華の中では、今も“失う怖さ”が真ん中に座っている。
恵子はすぐに、水を流し直した。さらさら、という音が戻る。戻ってきた日常の音に、自分の表情を押し込めるみたいに。
「……そっか」
声だけが、ほんの少し低い。
そして、いつもの明るさに戻すみたいに、恵子は笑った。
「じゃあ、なおさら連絡先いるじゃない」
軽く言う。軽く言うことで、台所を“いつも通り”にしてしまう。
凛華は頷いた。小さく、でも確かに。
「……うん」
返事は静かだった。
静かすぎて、恵子は少しだけ不安になった。冗談が通じないほど、娘の内側が深いところへ沈んでいると分かるから。
けれど恵子は、踏み込まない。
踏み込んでしまったら、凛華の胸の底の水を揺らしてしまう気がした。揺らしたら、溢れる。溢れたら、止められない。
恵子は皿を拭きながら、わざと明るい声で言った。
「明日、何するの? 凛華」
凛華は、玄関の方へ一瞬だけ視線を落とし、それから自分のスマホを手に取った。
画面を点ける。ストラップが揺れる。擦り切れた布が、指に触れる。
「……やることがある」
「へえ?」
恵子が笑う。けれどその笑いは、少しだけ薄い。
凛華はメモアプリを開いた。指先が迷わず動く。
【連絡先】
たった三文字を打ち込んだだけで、胸の中に小さな“形”ができた気がした。
空白は危機。
危機は、準備で潰す。
潰せば、失わない。
凛華はスマホを握りしめ、深く息を吐いた。
台所の電灯は明るい。泡も白い。水音も軽い。
それなのに、凛華の胸の底だけが、ひどく暗かった。
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