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あの日、泣き虫だった君は隣のクラスで「高嶺の花」と呼ばれている  作者: 風莉


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7/11

7話 止まっていた時計、静かな夜

 夕暮れの街は、温度が落ち始めていた。


 冬月家の玄関灯の柔らかさを背中に残したまま、瀬戸悠真は歩いている。足音は一人分。さっきまで隣にあった気配が消えたせいで、空気が広く感じる。


 ――戻るんだ。


 そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ重くなった。


 凛花の涙も、凛花の「おかえり」も、冬月家の匂いも、全部がまだ体に貼りついている。貼りついているのに、家に着いた途端、それらは剥がれ落ちていく。自分の家の静けさが、無慈悲に上書きする。


 ポケットのスマホが震えた。


 画面を確認する前に、誰からか想像がついた。父だ。最近の父は、声ではなく通知で生きている。


 表示された文面は予想通りだった。


『今、帰る。夕飯どうする?』


 事務的な短さ。用件だけ。そこに「今日はどうだった?」も「大丈夫か?」もない。ないというより、書けないのだと分かる。書いたら、息子の何かを揺らしてしまう気がしているのかもしれない。


 悠真は画面を見つめたまま、歩道の端で立ち止まった。


 つい数時間前まで、自分は「おかえり」と言われていた。

 今は「夕飯どうする?」と聞かれている。


 どちらも日常の言葉だ。なのに、温度がまるで違う。


 凛花との再会という非日常は、言葉ひとつで現実へ引き戻される。現実は、コンビニ飯と、父との距離感でできている。


 悠真は指を動かした。


『コンビニで何か買って帰る。父さんは?』


 送信。


 送った瞬間、胸の奥の熱が少し冷える。冬月家の温かさが、遠のく。自分が戻るべき場所へ、引っ張られる感覚。


 悠真はそのまま、いつものコンビニへ向かった。


 自動ドアの電子音。蛍光灯の均一な光。棚に並ぶ弁当、カップ麺、菓子パン。整いすぎていて、安心する。ここには“家庭”の匂いがない。だから、余計な感情を刺激しない。


 適当に弁当を二つ。サラダも一つ。父が好きそうな缶コーヒー。自分用にスポーツ飲料。カゴに入れながら、ふと肘についた血の染みが視界に入った。


 凛花が、血を見た瞬間に顔色を変えたことを思い出す。


 ――死んじゃったらどうするの?


 あの言葉は、冗談じゃなかった。笑えない真剣さがあった。守ろうとする必死さがあった。自分の傷を見て、あんなふうに焦る人間を、悠真は知らない。


 コンビニのレジで会計を済ませ、袋を受け取る。外へ出ると、空はもう薄い青になっていた。街灯が点き始める。


 悠真は自宅へ向かう。


 袋の重さは軽い。なのに、胸の奥が重い。



 玄関前に着くと、鍵穴に鍵を差し込む前に一度だけ息を吐いた。


 家の中には父がいる。父の靴がある。父の気配がある。たったそれだけで、悠真の肩が僅かに上がる。


 嫌いなわけじゃない。


 むしろ、嫌いじゃないから厄介だ。


 嫌いなら距離を取ればいい。怒ればいい。責めればいい。でも、父は責める対象じゃない。父だって、壊れた家族の中で立ち尽くしている一人だ。


 ドアを開けると、家の匂いがした。薄い匂い。生活はあるのに、温度が低い匂い。


「……おかえり」


 リビングの方から父の声が聞こえた。テレビの音が混じっている。ニュース番組のアナウンサーの声。BGMのように流れているだけの音。


 悠真は靴を脱ぎながら、反射的に言いかけた。


「ただいま」


 でも声が途中で止まり、結局こうなった。


「……うん」


 短すぎる返事。自分でも不自然だと分かる。けれど、今さら父に対して“普通の息子”を演じるのが、妙に気恥ずかしい。


 父はそれに何も言わなかった。聞こえなかったふりをしたのかもしれないし、聞こえても触れないのかもしれない。


 リビングに入ると、父がソファから立ち上がっていた。作業着のままではない。着替えてはいるが、疲れが顔に残っている。


「コンビニか」


「うん。適当に」


「……悪いな。飯、作れなくて」


「別に」


 別に、で済む話ではないのに、別にと言ってしまう。父も、それ以上言わない。言ったら空気が壊れるからだ。


 ダイニングテーブルに弁当を並べる。二人分。父が箸を持ってくる。テレビの音だけが支配する時間。


 父と向かい合って食べることは、以前より増えた。それでも、会話は増えない。箸の音と、包装フィルムの擦れる音の方がよく聞こえる。


 凛花の家の食卓を思い出す。


 母の惚気。凛花のため息。明るさとうるささと温かさ。あれが“普通”なんだとしたら、自分の家はいつから“普通じゃなくなった”のか。


 悠真は、テレビの音に紛れるように、少しだけ勇気を出した。


「……今日さ」


 父が箸を止めた。こちらを見る。


「ん?」


 悠真の喉が、少し痛い。こういう切り出し方をすると、何か重大な話みたいになる。


「……冬月、覚えてる?」


 父の目が僅かに動いた。記憶を辿る表情。


「冬月……凛花ちゃんか?」


 即答に近かった。父は覚えている。よく覚えている。悠真よりも。


「うん。……今日、会った」


 父の眉が上がる。驚き。次いで、小さな安堵みたいな表情。


「そうか」


 たった二文字なのに、そこに感情が入っているのが分かった。父は嬉しいのだろう。悠真に“知っている誰か”が現れたことが。


「凛花ちゃん、よくうちに来てたからな。毎日のように」


 父は、遠いものを見るように少しだけ目を細めた。


「……あの子、元気だったか」


「……元気、だと思う」


 悠真は答えながら、凛花の泣き顔を思い出してしまい、言葉を濁した。元気とは言い切れない。あの涙は、元気な人の涙じゃない。


 父は、濁りを追及しなかった。そこが父の不器用さであり、優しさでもある。


「そうか。それは良かったな」


 父の口角が、ほんの少しだけ上がった。笑うというより、安心する表情。悠真はその顔を見て、胸の奥に薄い痛みが走る。


 父は、悠真のために喜んでいる。

 なのに悠真は、父に何も返せていない。


 沈黙が戻りそうになって、父が話題を探すみたいに言った。


「秋休み、何かするのか。……学園祭もあるだろ」


「……することない」


 即答してしまった。刺々しいつもりはないのに、言葉は冷たくなる。


 父は「そうか」と短く言って、箸を動かした。そこで会話は終わる。終わってしまう。


 気まずい沈黙が、テーブルの上に降りる。


 悠真は分かっている。父は悪くない。父も戸惑っている。壊れた家族の中で、どう接していいか正解が見つからない。自分だけじゃない。父も同じだ。


 嫌いじゃない。

 だからこそ、距離を測るのが難しい。


 テレビの音が流れ続ける。ニュースは淡々としている。世の中は平気で回っている。悠真の家庭が崩れたことなど、誰も知らない。


 食事が終わり、父が空になった容器をまとめる。


「先、風呂入っていいぞ」


「……うん」


 悠真はまた「うん」で返した。言葉が少ない。父の前では、言葉が足りなくなる。



 湯船に浸かった瞬間、身体の芯がほどけた。


 熱い。秋の夜の冷えた皮膚に、湯がじわじわ染み込む。筋肉が緩み、息が長くなる。


 そして。


 肘のあたりが、ピリッとした。


「……っ」


 痛みは小さい。けれど、熱さに浮き上がってきて、妙に鮮明だった。


 凛花が過剰なほど心配してくれた傷。


 冬月家で絆創膏を貼られたとき、凛花が目を逸らさずに見ていたこと。指が震えていたこと。脈を確かめるみたいに手首に触れたこと。あの危うい真剣さ。


 ――死んじゃったらどうするの?


 湯の熱が、その言葉まで呼び起こす。


 笑えるはずの言葉なのに、笑えなかった。凛花は本気だった。本気で、悠真が消えることを恐れていた。


 それは、嬉しいとは別の感情を連れてくる。


 重い。怖い。けれど、拒絶できない。


 湯船の中で、悠真はぼんやりと天井を見た。白い天井。水滴。換気扇の音。ここも、静かだ。


 凛花の家のリビングの明るさが、頭の中に浮かんで消えた。あの家は音があった。声があった。匂いが濃かった。


 自分の家は薄い。


 薄いから、凛花の温度が余計に刺さる。


 風呂から上がり、部屋に戻る。カーテンの隙間から街灯の光が差し込む。机の上には教科書が積まれている。明日から秋休みだというのに、頭の中で“学校”の存在が消えない。


 まだ続く連休。

 そして、その後に待つ学校生活。


 そこに、凛花がいる。


 連絡先すら知らない。LINEも、電話も、交換していない。現代の高校生としてはあり得ないくらい、関係の形が不完全だ。


 けれど――もう「関係ない人」ではない。


 あの森で泣いた凛花。

 「おかえり」と言った凛花。

 「行かないよ」を契約みたいに刻んだ凛花。


 悠真はベッドに腰を下ろし、スマホを手に取って画面を点けた。連絡先のアプリを開いて、閉じた。意味がない。交換していないのだから。


「……明日、学校じゃないのに」


 独り言が漏れる。


 会いたい、とは思わない。思わないはずだ。


 でも、会ったらどうなるのかは気になる。


 自分は、凛花の「永遠」に付き合えるのか。

 凛花は、自分の「現実」を受け入れられるのか。


 高揚感がある。胸の奥が少し浮く。青春みたいだ、と自嘲しそうになる。けれどその高揚感の底には、不安が沈んでいる。


 止まっていた時計が、動き始めてしまったような感覚。


 動き始めた針は、もう戻らない。


 悠真は目を閉じた。眠気が静かに降りてくる。深い眠りが、頭の中の渦を一時的に沈めてくれる。


 眠りに落ちる直前、悠真はぼんやりと思った。


 凛花の声を、もう一度聞く日が来る。

 その日が怖いのに、少しだけ待ち遠しい。


 矛盾を抱えたまま、悠真は静かな夜の底へ沈んでいった。

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