7話 止まっていた時計、静かな夜
夕暮れの街は、温度が落ち始めていた。
冬月家の玄関灯の柔らかさを背中に残したまま、瀬戸悠真は歩いている。足音は一人分。さっきまで隣にあった気配が消えたせいで、空気が広く感じる。
――戻るんだ。
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ重くなった。
凛花の涙も、凛花の「おかえり」も、冬月家の匂いも、全部がまだ体に貼りついている。貼りついているのに、家に着いた途端、それらは剥がれ落ちていく。自分の家の静けさが、無慈悲に上書きする。
ポケットのスマホが震えた。
画面を確認する前に、誰からか想像がついた。父だ。最近の父は、声ではなく通知で生きている。
表示された文面は予想通りだった。
『今、帰る。夕飯どうする?』
事務的な短さ。用件だけ。そこに「今日はどうだった?」も「大丈夫か?」もない。ないというより、書けないのだと分かる。書いたら、息子の何かを揺らしてしまう気がしているのかもしれない。
悠真は画面を見つめたまま、歩道の端で立ち止まった。
つい数時間前まで、自分は「おかえり」と言われていた。
今は「夕飯どうする?」と聞かれている。
どちらも日常の言葉だ。なのに、温度がまるで違う。
凛花との再会という非日常は、言葉ひとつで現実へ引き戻される。現実は、コンビニ飯と、父との距離感でできている。
悠真は指を動かした。
『コンビニで何か買って帰る。父さんは?』
送信。
送った瞬間、胸の奥の熱が少し冷える。冬月家の温かさが、遠のく。自分が戻るべき場所へ、引っ張られる感覚。
悠真はそのまま、いつものコンビニへ向かった。
自動ドアの電子音。蛍光灯の均一な光。棚に並ぶ弁当、カップ麺、菓子パン。整いすぎていて、安心する。ここには“家庭”の匂いがない。だから、余計な感情を刺激しない。
適当に弁当を二つ。サラダも一つ。父が好きそうな缶コーヒー。自分用にスポーツ飲料。カゴに入れながら、ふと肘についた血の染みが視界に入った。
凛花が、血を見た瞬間に顔色を変えたことを思い出す。
――死んじゃったらどうするの?
あの言葉は、冗談じゃなかった。笑えない真剣さがあった。守ろうとする必死さがあった。自分の傷を見て、あんなふうに焦る人間を、悠真は知らない。
コンビニのレジで会計を済ませ、袋を受け取る。外へ出ると、空はもう薄い青になっていた。街灯が点き始める。
悠真は自宅へ向かう。
袋の重さは軽い。なのに、胸の奥が重い。
⸻
玄関前に着くと、鍵穴に鍵を差し込む前に一度だけ息を吐いた。
家の中には父がいる。父の靴がある。父の気配がある。たったそれだけで、悠真の肩が僅かに上がる。
嫌いなわけじゃない。
むしろ、嫌いじゃないから厄介だ。
嫌いなら距離を取ればいい。怒ればいい。責めればいい。でも、父は責める対象じゃない。父だって、壊れた家族の中で立ち尽くしている一人だ。
ドアを開けると、家の匂いがした。薄い匂い。生活はあるのに、温度が低い匂い。
「……おかえり」
リビングの方から父の声が聞こえた。テレビの音が混じっている。ニュース番組のアナウンサーの声。BGMのように流れているだけの音。
悠真は靴を脱ぎながら、反射的に言いかけた。
「ただいま」
でも声が途中で止まり、結局こうなった。
「……うん」
短すぎる返事。自分でも不自然だと分かる。けれど、今さら父に対して“普通の息子”を演じるのが、妙に気恥ずかしい。
父はそれに何も言わなかった。聞こえなかったふりをしたのかもしれないし、聞こえても触れないのかもしれない。
リビングに入ると、父がソファから立ち上がっていた。作業着のままではない。着替えてはいるが、疲れが顔に残っている。
「コンビニか」
「うん。適当に」
「……悪いな。飯、作れなくて」
「別に」
別に、で済む話ではないのに、別にと言ってしまう。父も、それ以上言わない。言ったら空気が壊れるからだ。
ダイニングテーブルに弁当を並べる。二人分。父が箸を持ってくる。テレビの音だけが支配する時間。
父と向かい合って食べることは、以前より増えた。それでも、会話は増えない。箸の音と、包装フィルムの擦れる音の方がよく聞こえる。
凛花の家の食卓を思い出す。
母の惚気。凛花のため息。明るさとうるささと温かさ。あれが“普通”なんだとしたら、自分の家はいつから“普通じゃなくなった”のか。
悠真は、テレビの音に紛れるように、少しだけ勇気を出した。
「……今日さ」
父が箸を止めた。こちらを見る。
「ん?」
悠真の喉が、少し痛い。こういう切り出し方をすると、何か重大な話みたいになる。
「……冬月、覚えてる?」
父の目が僅かに動いた。記憶を辿る表情。
「冬月……凛花ちゃんか?」
即答に近かった。父は覚えている。よく覚えている。悠真よりも。
「うん。……今日、会った」
父の眉が上がる。驚き。次いで、小さな安堵みたいな表情。
「そうか」
たった二文字なのに、そこに感情が入っているのが分かった。父は嬉しいのだろう。悠真に“知っている誰か”が現れたことが。
「凛花ちゃん、よくうちに来てたからな。毎日のように」
父は、遠いものを見るように少しだけ目を細めた。
「……あの子、元気だったか」
「……元気、だと思う」
悠真は答えながら、凛花の泣き顔を思い出してしまい、言葉を濁した。元気とは言い切れない。あの涙は、元気な人の涙じゃない。
父は、濁りを追及しなかった。そこが父の不器用さであり、優しさでもある。
「そうか。それは良かったな」
父の口角が、ほんの少しだけ上がった。笑うというより、安心する表情。悠真はその顔を見て、胸の奥に薄い痛みが走る。
父は、悠真のために喜んでいる。
なのに悠真は、父に何も返せていない。
沈黙が戻りそうになって、父が話題を探すみたいに言った。
「秋休み、何かするのか。……学園祭もあるだろ」
「……することない」
即答してしまった。刺々しいつもりはないのに、言葉は冷たくなる。
父は「そうか」と短く言って、箸を動かした。そこで会話は終わる。終わってしまう。
気まずい沈黙が、テーブルの上に降りる。
悠真は分かっている。父は悪くない。父も戸惑っている。壊れた家族の中で、どう接していいか正解が見つからない。自分だけじゃない。父も同じだ。
嫌いじゃない。
だからこそ、距離を測るのが難しい。
テレビの音が流れ続ける。ニュースは淡々としている。世の中は平気で回っている。悠真の家庭が崩れたことなど、誰も知らない。
食事が終わり、父が空になった容器をまとめる。
「先、風呂入っていいぞ」
「……うん」
悠真はまた「うん」で返した。言葉が少ない。父の前では、言葉が足りなくなる。
⸻
湯船に浸かった瞬間、身体の芯がほどけた。
熱い。秋の夜の冷えた皮膚に、湯がじわじわ染み込む。筋肉が緩み、息が長くなる。
そして。
肘のあたりが、ピリッとした。
「……っ」
痛みは小さい。けれど、熱さに浮き上がってきて、妙に鮮明だった。
凛花が過剰なほど心配してくれた傷。
冬月家で絆創膏を貼られたとき、凛花が目を逸らさずに見ていたこと。指が震えていたこと。脈を確かめるみたいに手首に触れたこと。あの危うい真剣さ。
――死んじゃったらどうするの?
湯の熱が、その言葉まで呼び起こす。
笑えるはずの言葉なのに、笑えなかった。凛花は本気だった。本気で、悠真が消えることを恐れていた。
それは、嬉しいとは別の感情を連れてくる。
重い。怖い。けれど、拒絶できない。
湯船の中で、悠真はぼんやりと天井を見た。白い天井。水滴。換気扇の音。ここも、静かだ。
凛花の家のリビングの明るさが、頭の中に浮かんで消えた。あの家は音があった。声があった。匂いが濃かった。
自分の家は薄い。
薄いから、凛花の温度が余計に刺さる。
風呂から上がり、部屋に戻る。カーテンの隙間から街灯の光が差し込む。机の上には教科書が積まれている。明日から秋休みだというのに、頭の中で“学校”の存在が消えない。
まだ続く連休。
そして、その後に待つ学校生活。
そこに、凛花がいる。
連絡先すら知らない。LINEも、電話も、交換していない。現代の高校生としてはあり得ないくらい、関係の形が不完全だ。
けれど――もう「関係ない人」ではない。
あの森で泣いた凛花。
「おかえり」と言った凛花。
「行かないよ」を契約みたいに刻んだ凛花。
悠真はベッドに腰を下ろし、スマホを手に取って画面を点けた。連絡先のアプリを開いて、閉じた。意味がない。交換していないのだから。
「……明日、学校じゃないのに」
独り言が漏れる。
会いたい、とは思わない。思わないはずだ。
でも、会ったらどうなるのかは気になる。
自分は、凛花の「永遠」に付き合えるのか。
凛花は、自分の「現実」を受け入れられるのか。
高揚感がある。胸の奥が少し浮く。青春みたいだ、と自嘲しそうになる。けれどその高揚感の底には、不安が沈んでいる。
止まっていた時計が、動き始めてしまったような感覚。
動き始めた針は、もう戻らない。
悠真は目を閉じた。眠気が静かに降りてくる。深い眠りが、頭の中の渦を一時的に沈めてくれる。
眠りに落ちる直前、悠真はぼんやりと思った。
凛花の声を、もう一度聞く日が来る。
その日が怖いのに、少しだけ待ち遠しい。
矛盾を抱えたまま、悠真は静かな夜の底へ沈んでいった。




