5話 聖域の誓い、不穏な綻び
泣く、という行為を目の前で見たとき、人は意外なほど無力になる。
秘密基地跡地の静けさの中で、冬月凛花の涙だけが音を持っていた。ぽろぽろと頬を伝い、顎から落ち、落ちた先の枯れ葉を少しだけ濃くする。泣き声は大きくない。むしろ抑えている。抑えているのに、止められない種類の涙だった。
瀬戸悠真は、何をしていいのか分からず立ち尽くしていた。
昨日まで、凛花は“噂の高嶺の花”だった。冷たい瞳で、告白を切り捨てる、近寄りがたい美少女。自分とは関係のない存在。関わったら面倒な存在。
その凛花が、今、目の前で泣いている。
自分の名前を呼んで。
「本当に悠真なの?」と震えて。
そして、ストラップに気づいた瞬間に。
「……え、えっと……」
言葉が出ない。慰め方なんて知らない。まして、女子の涙に対して適切な行動なんて、経験がない。
母の涙なら、見たことがある。けれど、あれは“知らない涙”だった。どこか嘘くさくて、どこか演技で、そして、結局は自分たちを置き去りにしていった涙。
凛花の涙は、違う。
この涙は、逃げない。逃げるための涙ではない。失ったものが、戻ってきたときに溢れる涙だ。
悠真は焦った。焦りは、身体を無駄に動かす。
「だ、大丈夫……じゃないよな。えっと、ティッシュ……ないし……」
ポケットを探る。ハンカチがない。家を出るときに適当に上着を羽織っただけだ。自分の準備の雑さが呪わしい。
凛花は、泣いているのに、じっと悠真を見ていた。涙の膜越しの瞳は濡れていて、光を拾って震えている。視線の強さだけは、泣いていても失われていない。
それが余計に悠真を混乱させた。泣いているのに、逃げない目。泣いているのに、見ている目。
「……ごめん。いや、俺が悪いわけじゃ……いや、悪いのか? 勝手にここで寝てたし……」
言っていることが支離滅裂だと自分でも分かる。けれど、止められない。
凛花の肩が、小さく上下した。しゃくり上げる呼吸。涙がさらに溢れて、頬に新しい筋を作る。
その泣き顔を見た瞬間、悠真の胸の奥に、古い映像がふっと浮かんだ。
小さい頃の秘密基地。
木の根元に石を並べて、「ここが入口」と言って笑った。
転んで膝を擦りむいて、泣きべそをかいた女の子。
泣き虫だった。
泣き虫で、でも、泣きながら怒る子だった。悔しいから泣く、怖いから泣く、寂しいから泣く。その全部が素直で、抑えられなくて、子どもらしくて。
――凛花。
そうだ、と悠真の中で何かが確かに繋がった。繋がった瞬間、身体が勝手に動いた。
悠真は、無意識に手を伸ばしていた。
凛花の頭に、そっと触れる。黒髪の上に、指が沈む。細くて柔らかい髪が、指の間を滑った。
撫でる。
優しく、慎重に。壊れ物に触れるみたいに。
凛花の身体が一瞬、ビクッと跳ねた。肩が固まる。呼吸が止まる。拒絶される――と思って、悠真は反射的に手を引きかけた。
けれど、凛花は引かなかった。
固まったまま、数秒。次の瞬間、凛花の肩から力が抜けた。まるで、強張りを解くための鍵がその手の温もりだったみたいに。
泣き声が小さくなる。しゃくり上げが、少しずつ落ち着いていく。凛花は俯き、悠真の手に頭を預けるように、ほんのわずかに体重を寄せた。
縋る、という言葉が浮かんで、悠真は妙に胸が詰まった。
自分は、誰かに縋られた経験が少ない。縋られることは、重い。責任が生まれる。期待が生まれる。期待は、裏切れない。
でも、今は。
凛花が泣き止むなら、それでいいと思った。
「……その、ストラップ……」
凛花が掠れた声で言った。涙で濡れた声。震えているのに、必死に言葉にしようとしている。
悠真は、凛花のスマホにぶら下がる古いストラップを見た。擦り切れた紐。色褪せた布。自分が昔、駄菓子屋で買って、子どもらしい得意げな顔で渡したもの。
「……持っててくれたんだな」
悠真がそう言うと、凛花はしゃくり上げながら、小さく頷いた。
「うん……」
それだけで、十分だった。
“持っていた”という事実は、凛花がこの場所だけじゃなく、あの時間も守ってきた証明だ。八年間、途切れないまま。
悠真は、息を吐いた。胸の奥が熱い。恥ずかしいとか、気まずいとか、そういう感情より、もっと原始的なもの。
待っていた人がいた。
自分のことを覚えていた人がいた。
その事実が、想像より強く胸を叩いた。
凛花は顔を上げた。涙で濡れた睫毛が光る。頬は赤い。唇が少し震えている。
そして、凛花は上目遣いで――まるで、確認するみたいに、恐る恐る言った。
「ねえ……もう、どこにも行かない?」
その言葉は、お願いだった。
けれど、凛花の瞳の奥には、お願い以上の圧があった。失う怖さ。失う前提で世界を見る目。喪失回避のために、何でもする目。
悠真は、その圧に気づいたはずなのに――気づかないふりをした。
今の空気の中で、「分からない」と言えなかった。
「約束できない」と言えなかった。
だって、言ったら、また泣かせてしまう。
泣かせたくない。
泣かせたら、今度は自分が嫌になる。
そして何より――
自分は、久しぶりに“必要とされている”感覚に酔っていた。
「……行かないよ」
言ってしまった。
先のことも考えずに。
父の事情も、転校の事情も、人生の不確実さも、全部棚に上げて。
凛花の瞳が、瞬間的に安堵でほどけた。
泣き顔のまま、口角がほんの少しだけ上がる。その笑みは、子どもの頃の凛花の笑みに似ていた。似ているからこそ、悠真の胸の奥が痛んだ。
凛花は小さく息を吸い、言った。
「……おかえり」
たった一言。
なのに、その一言が悠真の胸に深く刺さった。
“おかえり”。
帰る場所がある人だけが言える言葉。
帰りを待っている人がいる人だけが言える言葉。
壊れていない家庭の言葉。
悠真は、喉の奥が熱くなるのを感じた。自分の家庭は崩壊した。母はもういない。父と自分の家は、静かな空洞だ。そこに「おかえり」という言葉は、最近存在しなかった。
だから、この言葉は、痛い。
痛いのに、嬉しい。
矛盾が胸の奥で渦を巻いて、悠真は目を逸らした。凛花の前で、自分まで崩れたくなかった。
「……ただいま、って言えばいいのか」
悠真は、冗談みたいに言って誤魔化した。
凛花は頷いた。
「うん……」
それだけ。
――これで、再会が完了した。
悠真はそう思った。自分の中の空白が、少し埋まった気がした。
凛花にとっては、違う。
凛花の中では、この瞬間、契約が刻まれた。
「行かないよ」は、慰めじゃない。
永遠の約束だ。
今度こそ、世界を終わらせないための、誓いだ。
その差に、悠真は気づかない。
⸻
悠真が手を離すと、凛花の身体がわずかに前へ傾いた。
それは、支えを失った反射だった。
「あ……」
小さな声が漏れた。喉の奥で溶けるくらい小さくて、悠真には届かない。
凛花は、手の温もりが消えた頭を無意識に撫でた。そこに残っているはずの温かさを確かめるみたいに。
悠真は、気づかないまま笑った。
「変わったよな、この辺。駅前とかさ、前はもっと……なんだっけ、古い商店街だったのに」
他愛のない話。世間話。空白を埋めるための言葉。
凛花は目元を拭いながら、赤くなった顔を隠すように視線を落として頷いた。
「……うん。変わった」
声がまだ震えている。涙の名残。悠真はそれを「さっき泣いたのが恥ずかしいんだろう」と解釈した。
恥ずかしい。
そういう感情なら、安全だ。
凛花が“普通の女の子”として見えるから。
悠真は、少しだけ気が楽になった。
「それにしても……お前、学校だと全然話しかけられない雰囲気だったのに」
「……そう?」
「そう。なんか、冷たいって噂」
凛花の目が一瞬だけ鋭くなった。鋭くなって、すぐに柔らかくなる。
「……そういうの、便利だから」
「便利?」
「近づかれない。勝手に期待されない。勝手に噂されない」
凛花の言葉は、妙に現実的だった。悠真は一瞬だけ胸がざわついた。自分と似た匂いを感じたからだ。
期待されない方が楽。
近づかれない方が安全。
勝手に好意を向けられるのは、怖い。
そういう感覚。
悠真は、視線を逸らして笑った。
「……俺も似たようなもんかも」
凛花は、その言葉に小さく頷いた。頷いて、そして、今度は凛花の方から尋ねた。
「……そっちはどうだったの?」
その一言で、空気が少し変わった。
“そっち”。
この八年間。
悠真がいなくなってからの時間。
凛花が知らない場所で、悠真が過ごしてきた日々。
悠真は、言葉に詰まった。
受験に縛られた毎日。勉強しても、心が追いつかない。母が家にいない時間が増え、父が疲れて帰ってくる時間が増え、家が徐々に壊れていく感覚。
そして――母の不倫。
その話を、この場でしていいのか。
凛花の涙がやっと落ち着いたこの空気に、憎悪や嫌悪を混ぜていいのか。そんなものを持ち込んだら、せっかくの再会が汚れてしまう気がした。
悠真は、短く笑って誤魔化した。
「……忙しかったくらいだな」
凛花の瞳が、ほんの一瞬だけ揺れた。
“嘘”。
そう言わない。そう指摘しない。けれど、凛花は気配で分かってしまう。悠真が何かを隠したことを。隠す理由が、明るい話ではないことを。
凛花は、その揺れを飲み込んで頷いた。
「……そっか」
それ以上は追及しない。
今は、再会したばかり。
今は、戻ってきたばかり。
今は、逃がさないことが最優先。
凛花の中で、優先順位が静かに並び替わる。
「知る」は後でいい。
「繋ぎ止める」が先だ。
⸻
会話が少し落ち着いたとき、凛花の視線がふと、悠真の服に止まった。
悠真の肘のあたり。袖の布が、少し暗い色に滲んでいる。
凛花の瞳が、一気に冷えた。
いや、冷えたのではない。熱が、瞬間的に凝縮された。
「……それ」
凛花の声が低くなった。
「なに?」
悠真が袖を見る。転んだときに擦りむいたところだろう。血が少し滲んでいる。大したことはない。痛みももう落ち着いている。
「転んだだけ。さっき来るとき、ちょっと滑って」
悠真は笑って言った。軽い出来事として扱いたかった。
凛花は、笑わなかった。
凛花の顔色が変わる。瞳が大きく見開かれ、呼吸が浅くなる。まるで、悠真が今にも崖から落ちそうだとでも思ったみたいに。
「……血」
凛花は一歩近づき、悠真の腕を掴みかけて、途中で止めた。触ったら痛いかもしれない。けれど、触らなければ確認できない。
凛花の中で、焦りが膨らむのが見えた。
「大丈夫だって。こんなの、すぐ――」
「だめ」
凛花が遮った。
その言い方は、拒絶というより命令に近かった。学校での冷たい凛花とは違う。今の凛花は、感情がむき出しで、危うい。
「消毒しないと」
「え、いや……家に帰れば」
「今すぐ」
凛花の声が震える。震えているのに、強い。悠真はその強さに押されて、反射的に一歩引きかけた。
その瞬間、凛花の手が悠真の手を強く握りしめた。
ぎゅ、と。
握り方が、さっきとは違う。
さっきは、大事なものを壊さないための、そういう握り方だった。
今は、逃がさないための掴み方だ。
悠真の指が、少し痛い。
「……おい、凛花?」
呼びかけると、凛花は悠真を見上げた。
その瞳は、どこかおかしいほど真剣だった。冗談では済まされない光を宿している。
「その傷が原因で死んじゃったらどうするの?」
言葉が、鋭く落ちた。
森の静けさの中で、その一文だけがやけに重い。
悠真は、言葉を失った。
「え、いや……死なないだろ。こんな擦り傷で」
「でも、死ぬかもしれない」
凛花は本気で言っている。馬鹿げているのに、本気だ。極端な発想が、冗談の皮を被らずにそのまま出てくる。
凛花は独り言のように呟き始めた。
「土、ばい菌……この森、虫……破傷風……いや、今はワクチン……でも、でも……」
焦りが言葉を押し出す。凛花の呼吸は浅い。手の力は緩まない。悠真の手を握りしめたまま、凛花は落ち葉の上で足を踏み替える。落ち着けない。
悠真は笑って誤魔化そうとした。けれど、笑えなかった。
凛花の熱量は、優しさの形をしているのに、どこか危険だ。守ろうとする力が、相手の自由を押し潰す方向に伸びている。
――この子は、こんなだったか?
いや、昔も似た片鱗はあったのかもしれない。ただ、子どもだったから可愛げに見えただけで。
凛花は、悠真の手を握ったまま、決めたように顔を上げた。
学校での「高嶺の花」とは程遠い。危うい熱を孕んだ瞳。泣き顔の名残が残ったまま、けれど意思だけは鋭い。
「私の家に行こう」
悠真の背中に、冷たいものが流れた。
断れない、と思った。
断ったら――凛花はもっと不安になって、もっと強く掴んでくる気がした。
“行かないよ”と約束したばかりの自分が、ここで拒否するのは、あまりに無責任に見える。
悠真は、握られた手の痛みを感じながら、小さく頷くしかなかった。
森の風が吹く。
朽ちたベンチの影で、一人用のソファの張り地が静かに靡く。
それは、誓いが刻まれた場所の証であり――同時に、これから綻びが始まる予兆のようにも見えた。




