4話 再会の残響、解ける封印
森の奥へ踏み込むほど、町の音が薄くなっていった。車の走行音、遠くの人声、生活の気配。それらが木々に吸い込まれ、代わりに葉の擦れる音と、土の匂いだけが濃くなる。
瀬戸悠真は、息を吐くたびに胸の奥が冷えていくのを感じながら、同じ方向へ伸びる踏み跡を目で追った。
――やっぱり、誰かが通ってる。
前回も気づいた。枯れ葉が不自然に押し潰されていること、湿った土が露出していること。今回もそれが続いている。森は荒れているのに、道だけは妙に迷わない。
不気味というより、居心地が悪い。自分が「思い出」の場所だと思っていたのに、そこに今も誰かの「現在」が混ざっている感じがするからだ。
考えるな、と自分に言い聞かせて歩く。歩きながら思い出すのは、最悪だ。ここへ来たのは逃げるためで、引きずり出されるためじゃない。
それでも、道は少しずつ勾配を増していった。森というより、裏山の斜面へ続く小道。昔は平気で駆け上がっていたはずなのに、今の身体には正直にきつい。
「……っ、はぁ……」
息が上がる。足が重い。運動不足という言葉が、現実味を持って殴ってくる。制服で通学しているだけでは、筋肉は育たない。都会では階段もエスカレーターも多かった。坂道の“継続”に体が慣れていない。
それでも、引き返す気にはならなかった。
引き返したら、家に戻るだけだ。空っぽの家に。父の書き置きと、アプリの通知と、気まずさだけが漂う空間に。
悠真は木の根を踏み、枝を避け、斜面を上がった。汗が背中に滲む。手のひらが湿る。足元の落ち葉は乾いているのに、土は意外と柔らかい。滑りやすい。
――昔は、こんなに怖くなかったのに。
そう思った瞬間、足裏がぬるりとした。
「うわ――」
声が漏れる前に、身体が傾いた。踏ん張ろうとして、踏ん張りきれない。重心が前へ転がる。
次の瞬間、視界がぐるりと回り、肩から地面に叩きつけられた。
どさっ、と音がして、枯れ葉が舞った。
痛みが遅れて来る。肩、肘、膝。擦りむいた熱。呼吸が一瞬止まり、喉の奥がきゅっと縮む。
「……っ……」
悠真は歯を食いしばった。声を出すのが嫌だった。誰もいない森で声を出すのが、妙に恥ずかしい。情けない。
それに、痛いのは当たり前だ。転んだのは自分のせいだ。痛いと訴える相手もいないし、訴えたところで何も変わらない。
ゆっくり起き上がって、服についた枯れ葉を払う。肘が少し赤い。膝はズボン越しだから大丈夫そうだ。肩を回して、動くか確かめる。
――動く。まだ。
それだけでいい。まだ進める。
悠真は息を整えて、斜面を上がり直した。転んだ場所を避けるように、少し脇へ。道が続いている。踏み跡も続いている。まるで「こっちだ」と教えるみたいに。
しばらくして、木々の密度が少し薄くなった。光が増える。風が通る。空が見える。
胸の奥が、短く鳴った。
――着いた。
そこは、かつて「秘密基地」と呼んだ場所の名残だった。
木の根元に積んだ石の輪は、半分崩れている。板切れで作ったベンチは、朽ちて地面に吸い込まれかけている。草が伸び、落ち葉が溜まり、時間の堆積が目に見える。
老朽化している。思い出が、ちゃんと風化している。
それが、どこか安心だった。思い出は思い出のまま、今とは切り離されるべきだ。変わらないまま残っていると、触れたくなる。触れたら痛い。
だが――
悠真は、その場の中心にある“異物”を見つけて、思考が止まった。
一人用のソファ。
深い色の布張りで、古いのに丁寧に扱われている感じがする。家にあるようなソファではない。誰かがどこかから運び込んだものだ。しかも、ここに置くために。
秘密基地には、そんなものはなかった。絶対に。
「……は?」
声が漏れた。理解が追いつかない。
――誰が、なんで。
ソファの周りには、目立つゴミもない。空き缶もない。焚き火の跡もない。ただ、ソファだけが“あって当然”みたいに鎮座している。
悠真の背筋に、薄い寒気が走った。
踏み跡。新しい道。今も誰かが通っている気配。その答えが、このソファなのだとしたら。
この場所は、自分の思い出だけの場所じゃない。誰かの現在の場所だ。
その事実が、妙に胸をざわつかせた。
でも同時に――疲労が限界に近かった。転んだ痛みもじわじわ増している。息も整わない。頭もぼうっとする。
悠真はソファに近づき、躊躇した。座っていいのか。誰かのものだ。勝手に触ったらまずい。
けれど、誰もいない。今は。
悠真は自分に言い訳をした。
――少しだけ。休むだけ。
そうして、ソファに腰を下ろした。
想像以上に柔らかい。沈む。包まれる。背もたれに体重を預けると、肩の力が抜けた。森の風が、汗の熱を冷ます。葉の擦れる音が、耳の奥を撫でる。
疲れていた。心も、身体も。
目を閉じると、暗闇の中で、時間が溶けた。
――少しだけ。
悠真はそう思ったはずなのに、その「少し」は、あっさり眠りへ滑り落ちた。
風が、ソファの横を通り抜ける。木漏れ日が、瞼の上で揺れる。
うたた寝は、甘い。現実が薄くなる。家庭も、母も、父も、学校も、噂も、全部が遠ざかる。
だから、悠真はそれに身を任せた。
⸻
冬月凛花は、山道を上がる足取りに迷いがなかった。
斜面の角度も、木の根の位置も、滑りやすい場所も知っている。足元の落ち葉が厚い場所は避ける。枝が顔に当たりやすい場所では身を低くする。呼吸の配分も、速度も、身体が覚えている。
ここへ通うことは、凛花の生活の一部だった。
「秘密基地」という言葉で呼ぶと幼い。けれど、凛花にとってはそれ以上でも以下でもない。ここは聖域だ。誰にも教えていない。誰にも触らせない。
――触らせない。
その言葉が、凛花の胸の奥で鋭く光った。そう思ってしまう自分が、少しだけ嫌だった。自分の中にある過剰さを、凛花は知っている。
知っているのに、止められない。
山道を上がっている途中、スマホが震えた。画面に表示された名前に、凛花は一瞬だけ眉を寄せた。
クラスの友人。表面上は、友人。向こうは凛花を「話しかけにくいけど、別に悪い人じゃない」と思っている。凛花はそれを知っていて、その距離を維持している。
通話に出る。
「もしもし」
『凛花? 今大丈夫?』
「うん。どうしたの」
『明日さ、秋休みだし、駅前で遊ばない? 新しいカフェできたじゃん』
面倒だ、と凛花は即座に思った。カフェで騒がしく笑って、写真を撮って、何を話すでもなく時間を潰す。それは凛花の欲しているものじゃない。
本心を言えば、明日もここへ来たい。今日だって、早くあの場所に着きたい。森の音の中で、自分の呼吸だけを聞きたい。
けれど凛花は、少しだけ間を置いてから、声の温度を整えた。
「いいよ」
『ほんと!? やった! じゃあ、何時にする?』
外面。そう、外面だ。
凛花は、両親を見て育ってきた。笑顔で相槌を打ち、相手の話を聞き、多少の面倒を飲み込んで関係を保つ。その積み重ねが、円満な空気を作る。
理想の夫婦像は、理想の人間関係像へ繋がる。
凛花はそれを知っているから、適度に“いい子”でいる。孤立しない程度に。余計な敵を作らない程度に。
そして――何より。
誰かに「凛花は付き合いが悪い」と思われるのが嫌だった。嫌というより、危険だと思っている。悪意は、切り口を見つけた瞬間に入り込む。余計な突っ込みどころは与えない。
「……昼過ぎなら」
『うんうん! じゃあ二時で! 駅前の改札で!』
「わかった」
『じゃあまたね!』
通話が切れる。画面が暗くなる。
凛花はスマホを握ったまま、短く息を吐いた。
――早く。
早く、あの場所へ。
心の中で焦りが膨らむ。今日の森は、いつもより音が騒がしい気がした。風のせいか、自分のせいか。どちらでもいい。早く静けさに沈みたい。
凛花は歩を早めた。
踏み跡は、いつも通り一本の道を作っている。自分が作った道。自分が守った道。
その道に、別の足跡が重なっていることに、凛花は気づかなかったふりをした。
気づいている。もちろん。
今日は、森の空気が少し違う。誰かが“侵入”した気配がある。けれど、凛花はそれをまだ現実にしたくなかった。現実にした瞬間、自分がどうするか分からないからだ。
怒るかもしれない。
追い払うかもしれない。
泣くかもしれない。
あるいは――もっと嫌なことをするかもしれない。
だから凛花は、足を進めることだけに集中した。聖域を確かめるために。守られているかどうかを確かめるために。
そして、確かめた先で、必要なら――
必要なら、取り戻す。
凛花の心は、そんなふうに静かに尖っていた。
⸻
悠真の耳に最初に届いたのは、枯れ葉を踏む音だった。
ザク、ザク、と、一定のリズム。
眠りの底から引き上げられる。瞼が重い。頭がぼやける。けれど、森で聞く足音は危険の合図にもなる。野生動物かもしれないし、人間ならもっと厄介だ。
悠真は背もたれから体を起こし、反射的に身構えた。
誰だ。ここは――
視界が揺れながら、木々の隙間の向こうに人影が見えた。細身で、真っ直ぐな姿勢。黒髪が風に揺れ、光を吸って沈む。
次の瞬間、悠真の思考が止まった。
――冬月凛花。
学校で見た「高嶺の花」。冷たい瞳の美少女。人を寄せ付けない雰囲気の、あの――。
凛花もまた、その場にソファがあることを前提に歩いてきたはずなのに、そこに“人”が座っているのを見た瞬間、足が止まった。
凍ったみたいに。
空気が固まる。
悠真は喉が乾くのを感じた。どうしてここに。いや、それより先に――自分は何をしている。人のものかもしれないソファで寝ていた。最悪だ。
一方の凛花は、目の前の光景を処理できずにいた。
誰にも教えず独り占めしていた場所。
誰にも入らせなかった場所。
守ってきた場所。
そこに、他人がいる。しかも、隣のクラスの転校生が。
凛花の胸の奥で、何かがひやりと沈んだ。沈んだのに、同時に熱が立ち上る。矛盾した反応。怒りと恐怖と、別の何か。
悠真は、言葉を探して口を開きかけたが、何を言えばいいのか分からなかった。
「ごめん」か?
「たまたま」か?
「ここ、昔――」か?
どれも違う。どれも言えば、面倒な方向へ転がる。
凛花が先に口を開いた。
「……誰?」
声は冷たかった。学校で聞いたのと同じ温度。抑揚が少なく、感情が削ぎ落とされている。
なのに悠真は、その声の奥に奇妙な懐かしさを感じた。
聞いたことがある気がする。
昔、もっと近い距離で。
当然だ、と自分に言い聞かせる。気のせいだ。似た声なんていくらでもいる。人の記憶は都合よく繋げたがる。
けれど、喉の奥がざわつく。
「……俺は」
悠真は、立ち上がるべきか迷った。立ち上がると、距離が近くなる。近くなると、相手の反応が分かる。分かると、逃げ道がなくなる。
だから、ソファから少し身を起こしただけで言った。
「最近この町に引っ越してきた。……瀬戸悠真」
名乗った瞬間、凛花の顔から、色が抜けた。
血の気が引く、という表現がそのまま当てはまる。白い肌がさらに白くなる。瞳が見開かれ、睫毛が小刻みに震える。
凛花の呼吸が、音になる。
「……え」
凛花の唇が、かすかに開く。冷たい仮面がひび割れる音が、見えないのに聞こえた気がした。
「……悠真?」
その呼び方。
悠真の背中を、何かが撫でた。ぞくりとする。自分の名前なのに、別の意味を帯びて刺さる。
凛花は一歩、こちらへ近づいた。足が震えている。震えているのに、止まらない。
「ねえ……本当に悠真なの?」
声が震えていた。冷たいはずの声が、急に生身になった。息が混じり、体温が混じり、感情がこぼれた。
悠真は、その変化に言葉を失った。目の前の冬月凛花は、学校の彼女とは別人に見える。凛として、近づけなくて、冷淡で――そういう印象のはずなのに、今はただ、崩れそうな人に見える。
そして、悠真の視線は、不意に別のものに奪われた。
凛花のスマホ。
その下にぶら下がっている、古いストラップ。
寂れた、古いストラップ。色褪せた布と、擦り切れた紐。小学生が駄菓子屋で買うような、安っぽい――でも、見覚えがある。
悠真の胸が、嫌なほど強く脈打った。
どうしてそれを。
なぜ、今も。
そんなはずは――
悠真の口から、勝手に言葉が漏れた。
「それ……」
凛花が息を呑む。
「それ、昔……俺が……」
言い終わる前に、凛花の表情が崩れた。
目が、震える。瞳の奥に水が溜まる。必死に堪えようとするみたいに、眉が寄る。唇が噛まれる。
次の瞬間。
大粒の涙が、凛花の頬を伝って落ちた。
ぽた、と、落ちる音が聞こえた気がした。森の静けさの中で、涙の落ちる気配だけがやけに鮮明だった。
凛花は泣いていた。
学校での冷徹な仮面が、完全に剥がれ落ちている。凛とした美女ではない。高嶺の花でもない。ただ、何かを失って、何かを取り戻した瞬間の――
寂しがりやの少女が、そこにいた。
悠真は、動けなかった。
どう声をかければいいのか分からない。
どう触れればいいのか分からない。
そして、触れてしまったら、何かが解けてしまう気がした。
秘密基地跡地に置かれた一人用ソファの破れた表皮が、風にめくれて力なく旗めいている。
それは、この八年間が存在した証みたいに、黙ってそこにあった。
凛花の涙は止まらない。
そして悠真の中で、忘れたふりをしていた“名前のないピース”が、音を立てて嵌まり始めていた。




