30.5話
悠真の寝室は、昼と夜の境目みたいな光で満たされていた。
カーテンは閉め切っているのに、窓の外の明るさだけが布越しに滲んで、薄い金色の膜みたいに部屋の輪郭をぼかしている。時計の秒針が、やけに大きい。なのに、音は遠い。
凛華はベッド脇の椅子に座ったまま、指先でタオルの端をいじっていた。
寝息を立てる悠真の呼吸に合わせるように、胸の奥が上下する。安心したいのに、安心すると怖い。怖いのに、離れたくない。
息が、ずっと浅い。
(……離したくない)
凛華は心の中で、同じ言葉を繰り返す。
(嫌われてもいい。泣かれてもいい。怒られてもいい。……ただ、私の目の届くところにいてほしい)
思うだけなら綺麗なのに、実際は汚い。
「看病」という名目の監視。
「心配」という名目の隔離。
悠真の体温計の数字だけを確認しているふりをしながら、本当はスマホの沈黙を見張っている。部屋の空気の変化を、まぶたの震えを、寝返りの回数を数えている。
息が荒くなったら――外へ行こうとしたら――誰かに連絡しようとしたら。
その「もしも」を、潰す準備をしている。
(最低だな、私)
そう思うのに、やめられない。
やめた瞬間、何かが起こる気がする。何かが起きて、悠真がいなくなる気がする。
凛華にとって「連絡がつかない」は、ただの欠席じゃない。あの日の予兆だ。
何も告げられず、いなくなった背中。
教室の空席。
誰も説明してくれない日々。
その全部が、一つの感覚として心の奥に染みついている。
消える。
突然。
当たり前みたいに。
だから、凛華は完璧でいなければならない。
献身的でいなければならない。
隙を見せたら、その隙間から悠真がすり抜けていってしまう。
自分が眠った瞬間に。
瞬きした瞬間に。
笑った瞬間に。
いなくなる。
凛華は、そう思っていた。
――なのに。
悠真のあの問いから、空気が変わった。
「僕がいない間、君に何があったんだ?」
凛華は本当に、身構えていた。
拒絶されると思った。
怖がられると思った。
「重い」と言われると思った。
そう言われてしまったら、自分はきっと笑ってしまう。笑って、平気なふりをして、もっと強く閉じ込めるしかなくなる。そうやって壊れていく未来まで、凛華はもう、頭の片隅で用意していた。
だから、悠真が自分の手を握った瞬間も――最初は、ただの反射で掴み返した。
逃がさないために。
縛るために。
自分の中の「義務感」が、そう命令したから。
でも、悠真が言った。
信じられないくらい、ぎこちなく。
照れ臭さを隠せない顔で。
目を逸らして、噛みながら。
「これからは、思い出の中の僕と喋らなくていいから」
凛華は、その言葉を理解するのに一拍遅れた。
思い出の中の君。
凛華が心の中でずっと抱いてきた行為を、悠真は否定しなかった。
気持ち悪がらなかった。
ただ、そこで止めた。
優しく、でも逃げ道のない形で。
「ちゃんとここにいるし。明日も、明後日も、勝手にいなくなったりしない」
凛華の中の“計算”が、音を立てて崩れた。
スマホを取り上げる必要もない。
ドアの前に立つ必要もない。
監視する必要もない。
縛っていないと消える――その前提が、悠真のたどたどしい言葉で、少しずつほどけていく。
紐を握り締めていた指が、勝手に緩むみたいに。
凛華はそれが怖かった。
緩めたら、消えるはずだったのに。
緩めても、悠真はここにいる。
消えない。
その現実が、胸の奥をじんわり温めて、逆に息ができなくなる。
そして、口からこぼれた。
「……なにそれ」
自分の声が幼い。
笑ってしまっている。
凛華は笑うつもりなんてなかったのに、可笑しさが先に出た。かっこ悪い。言い方が下手。ちゃんとした言葉じゃない。
でも。
(……かっこ悪い。でも……)
凛華は、胸の奥が痛くなるほど愛おしかった。
ずっと欲しかったのは、これだ。
完璧な言葉じゃない。
立派な約束じゃない。
ただ、自分のために必死になってくれる、その不器用さ。
「消えない」って、言葉を選ぶその時間。
逃げないって、体温で示すその手。
凛華はずっと、縛らなきゃと思っていた。
縛って、閉じ込めて、守って、奪って、そうしないと手に入らないと思っていた。
でも今は違う。
気づけば凛華の方が、救われてしまっている。
張り詰めていた肩の力が、ほどける。
視界の色が、少しだけ戻る。
カーテン越しの光が、さっきまでの薄い金色じゃなくて、ちゃんと「午後」になる。
世界が、急に穏やかだ。
それが怖いのに、気持ちいい。
凛華は、ふと自分の心を覗き込む。
ドロドロしていた。
独占したかった。
誰にも触れさせたくなかった。
悠真の時間を、ぜんぶ自分のものにしたかった。
それを凛華は、「執着」だと思っていた。
自分でも嫌になるほど汚いものだと思っていた。
でも今、悠真の言葉に笑ってしまった自分を見て――凛華は、胸の奥がすとんと落ちる感覚を覚えた。
(ああ、私……)
凛華は心の中で、ゆっくり言葉にする。
(彼を閉じ込めたかったんじゃなくて)
指先が、悠真の手の温度を確かめるようにそっと握り直す。
(ただ、こうして笑ってほしかっただけなんだ)
それだけでいい。
それだけで、息ができる。
それだけで、怖くなくなる。
凛華の中の「執着」という名前の塊が、形を変える。
澄んだものになるわけじゃない。熱は残っている。むしろ熱くなる。
でも、汚い泥の重さではなく、胸を満たして息をさせる熱だ。
凛華は、それに気づいてしまう。
(……恋だ)
定義なんて知らない。
教科書の言葉なんていらない。
ただ今、悠真の不器用な優しさに救われて、笑ってしまう自分がいる。
それが恋じゃなかったら、何なんだ。
凛華は、もう一度小さく吹き出した。
笑うと胸が痛い。
痛いのに、嬉しい。
嬉しいのに、涙は出ない。
その代わり――急に、眠気が来た。
体の奥から、どっと。
今まで張り詰めていた糸が切れたみたいに、重力が戻ってくる。
まぶたが重い。
頭がぼうっとする。
(……あ、だめ)
凛華は自分に言い聞かせる。
(寝たら――)
その続きが、出てこない。
寝たら消える、が出てこない。
代わりに、悠真の言葉が浮かぶ。
「消えない」
その一言が、凛華の全身から力を抜いていく。
凛華は、椅子から立ち上がろうとして、ふらりとよろけた。
悠真の腕が支える。
凛華はそれに抵抗しない。
抵抗できないくらい、安心してしまった。
凛華は悠真の胸元へ、そっと沈む。
布越しに伝わる心臓の音が、ゆっくりで、確かで。
凛華は、最後にだけ確認するみたいに囁いた。
「……消えない?」
子どもみたいな声。
悠真の返事は、短くて、迷いがない。
「消えない」
凛華の胸の中で、何かがほどけ切る。
ああ。
これが、恋なら。
こんなに怖くなくていいのかもしれない。
凛華は小さく息を吐いた。
唇が、勝手に笑う。
幸福な重力が、体を引いていく。
悠真の体温が、腕が、匂いが――確かに自分を受け止めている。
凛華はもう、見張らなくていい。
縛らなくていい。
消えないと信じて、眠っていい。
(……幸せだ)
その言葉を心の中で噛み締めた瞬間、凛華の意識はふっと落ちた。
深い眠り。
久しぶりに、底まで沈む眠り。
悠真の胸元で、凛華は静かに寝息を立て始める。
その寝息は、監視者の呼吸ではない。
ただの少女の、安息の音だった。




