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あの日、泣き虫だった君は隣のクラスで「高嶺の花」と呼ばれている  作者: 風莉


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30話

 凛華の言葉が落ちたあと、部屋の中はしんと静まり返っていた。


 カーテンの隙間から漏れる午後の光は、薄い布越しに鈍く滲んでいるだけで、時間の感覚を曖昧にする。時計の秒針が、やけに大きく聞こえた。


 悠真は凛華の肩を掴んだまま、動けない。


 目の前の凛華は泣いていない。怒ってもいない。微笑んでいる……いや、“微笑みの形を崩していない”だけだ。瞳の奥だけが、長い間積み重ねてきた孤独の濃さをそのまま映している。


 思い出の中の自分と喋っていた。


 当たり前のことみたいに言った。


 その軽さが、悠真の胸を締め付けた。凛華はその話を、罪でも秘密でもなく“日常”として抱えていたのだと理解してしまったからだ。


 ――逃げたい。


 喉の奥に、反射みたいに恐怖が湧く。


 自分がいなくなった時間の重み。凛華の中に生まれた「消える」という怯え。それが今、自分の目の前で形になっている。


 このまま触れたら、もっと深いものが出てきてしまう気がした。


 でも同時に、逃げたら壊れるとも思った。


 凛華は、ずっと一人でここまで来たのだ。


 誰も信用できないまま、信用できるものだけにしがみついて。悠真という概念に、体温の代わりを求めて。


 その“理由”が分かってしまったから、悠真の中の恐怖は別の感情に上書きされていく。


 守らなきゃ。


 守らなきゃって、そんな綺麗な言葉じゃない。


 ただ——この目の前の小さな震えを、もう増やしたくない。


 悠真は、凛華の肩から手を離した。


 離した瞬間、凛華の指先がぴくりと揺れた。逃げるのだと勘違いしたのかもしれない。その反応が痛い。


 悠真は、代わりに凛華の手を取った。


 自分から。


 いつも凛華が先に触れてきた手を、今日は悠真が握る。


 細い。


 冷たい。


 そして、想像より強い。握った瞬間、凛華の指が、逃がさないようにきゅっと返してくる。その必死さが、言葉より雄弁だった。


 悠真は一度、息を吐いた。


 何を言えばいいのか分からない。


 かっこよく決める言葉なんて、出てこない。


 でも、言わないままではいけない気がした。


「……なあ、凛華」


 声が掠れる。照れ臭い。喉が乾いている。熱は下がったのに、心臓が妙に熱い。


 凛華は瞬きもせず見ている。笑っていない瞳が、悠真の口元を追っている。


 悠真は視線を逸らした。


 直視したら、言葉が詰まる気がしたから。


 カーテンの布目を見ながら、必死に言葉を絞り出す。


「これからは……思い出の中の僕と喋らなくていいから」


 言った瞬間、ひどく恥ずかしくなる。何を言ってるんだ、と自分で思う。


 でも止められない。


 悠真は凛華の手を、もう一度握り直した。逃げない、という形を指先で作る。


「……ちゃんとここにいるし」


 声が小さい。


 それでも言う。


「明日も、明後日も……勝手にいなくなったりしないから」


 言いながら、自分の頬が熱くなるのが分かる。熱のせいではない。こういうことを言う柄じゃない。そもそも、凛華に対して“約束”を自分から差し出すなんて今までなかった。


 凛華はずっと、悠真に「置いていかないで」と言えないまま、形を変えて縛っていた。


 そのことが今更ながら、胸に刺さる。


 悠真は最後に、ほとんど願いみたいに付け足した。


「……だから、もうそんなに怖がらなくていい」


 言い終えた瞬間、部屋の空気が一拍遅れて揺れた。


 凛華が、動かない。


 悠真は怖くなって凛華を見る。


 凛華は、何が起きたのか分からないみたいな顔で悠真を凝視していた。目を見開いて、言葉を探している。いつもの完璧な微笑みも、聖女の仮面も、今はどこにもない。


 次の瞬間。


 凛華の口元が、ふっと崩れた。


 笑いではない。安心でもない。子どもみたいに、堪えきれないものが漏れるような、変な表情。


 凛華は小さく息を吐いて、かすかに吹き出す。


「……なにそれ」


 声が、少し震えている。


「……そんな言い方しなくてもいいのに」


 照れているのが分かった。


 それが、逆に胸を詰まらせる。凛華は今まで、どれほどこういう“普通の照れ”から遠い場所で耐えてきたのだろう。


 悠真は何も返せない。


 凛華の指先の力が、少しだけ緩む。


 それは「手放す」緩みじゃない。


 「逃がさないために握り締めていた力」が、初めて抜けた緩みだった。


 凛華の肩から、ふっと力が落ちる。


 まるで、糸がぷつりと切れたみたいに。


 凛華の瞳が、とろんと潤む。涙ではない。眠気に濡れた目だ。


「……あ」


 凛華は、自分の身体が急に重くなったみたいに瞬きをして、首を傾げる。


 それから、悠真の胸元に額が触れた。


 こつん、と軽い音。


 凛華はそのまま、体重を預けてきた。


 監視者の距離ではない。追い詰める距離でもない。


 ただの幼馴染が、安心した瞬間に崩れ落ちる距離。


 悠真は慌てて腕を回す。支えるというより、落ちないように受け止める。


「……凛華?」


 返事はない。


 凛華の呼吸が、ゆっくりになる。


 ふわ、と凛華の髪が頬に触れる。柔らかい匂い。昼のリンゴの甘さが、まだ少し残っている。


 凛華は、眠ってしまった。


 規則正しい寝息が、胸元から伝わってくる。


 悠真はその重みを感じながら、しばらく動けなかった。


 重い。


 でも、嫌じゃない。


 怖さも、消えてはいない。凛華が抱えている空白も、簡単に埋まるものじゃない。


 それでも今、凛華は“見張らなくても眠れる”状態になった。


 悠真はそっと、凛華の頭を撫でる。


 指先が髪を梳く。凛華の体温が、さっきより少し戻っている気がした。


 部屋を包んでいた不気味な閉塞感が、少し薄くなる。


 カーテンの向こうの光が、同じはずなのに、さっきより柔らかく感じる。


 この部屋には今、ただ二人がいる。


 病み上がりの少年と。


 ようやく深く眠れた少女がいる。


 悠真は小さく息を吐き、胸の奥で何かが解けるのを感じた。


「……おやすみ、凛華」


 呟いて、目を閉じる。


 凛華の寝息が、答えの代わりに続いた。


 その音に包まれながら、悠真もゆっくりと眠りへ落ちていった。

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