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あの日、泣き虫だった君は隣のクラスで「高嶺の花」と呼ばれている  作者: 風莉


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26話

 鍵の音の余韻が、まだ廊下に残っていた。


 凛華は靴を脱ぎ、できるだけ音を立てないように歩く。ビニール袋を床に置いた瞬間、ペットボトルが小さくぶつかり合い、凛華はその音にすら怯えるように息を止めた。


 静かすぎる。


 人がいる部屋の静けさじゃない。


 寝込んだ人間のいる家特有の、呼吸だけが世界の中心になる静けさ。


 凛華は悠真の部屋の前で立ち止まった。ドアノブに手をかける。掌が汗ばんでいるのに、指先が冷えている。


 ゆっくり回して、ほんの少しだけドアを開ける。


 暗い。


 カーテンは閉まっていて、昼の光がほとんど入っていない。空気が重い。熱の匂いがする。薬と汗と、乾いた喉の匂い。


 ベッドの上で、悠真が眠っていた。


 布団が乱れている。額に汗。頬が不自然に赤い。呼吸が荒い。苦しそうに、短く息を吐く。


 凛華の表情から、一瞬だけ険しさが消えた。


 見つけた。


 ここにいる。


 胸の奥の火が、ようやく息をつく。安堵が、涙になりかけて喉に詰まる。凛華は息を吸って、震えを誤魔化すように小さく笑った。


「……よかった」


 声は、祈りみたいに薄かった。


 けれど次の瞬間、凛華の目が、別のものを捉える。


 枕元。


 スマホ。


 黒い画面のまま、そこに置かれている。


 凛華の安堵が、じわりと形を変える。胸の奥で、別の熱が立ち上がる。


 “ある”。


 “あるのに”。


 “連絡しなかった”。


 凛華はゆっくりベッドの脇へ歩いた。布団の端に指が触れる。悠真の体温が熱いことが分かる。


 凛華はタオルの準備も、飲み物の準備も、いったん後回しにした。


 スマホに手を伸ばす。


 指先で拾い上げる。


 画面は暗い。通知は見えない。それでも凛華には十分だった。


 この中に、悠真の“外”が全部入っている。


 健太。学校。誰か。世界。


 悠真はそれを枕元に置いて、凛華には何も言わずに一晩を過ごした。


 凛華は、ゆっくり画面を撫でるように指を滑らせた。


 まるで、“裏切り”の証拠を撫でるみたいに。




 悠真が、うっすらと目を開けた。


 熱で瞼が重い。視界がぼやける。喉が痛む。呼吸が浅い。頭の奥がズキズキと脈打っている。


 それでも、目の前の影が誰かだけは分かる。


 凛華が、至近距離で自分を見下ろしていた。


 その瞳と目が合う。


 悠真は、息を呑んだ。


 凛華は微笑んでいる。


 でも、目が笑っていない。


 頬は柔らかいのに、視線だけが硬い。逃げ道のない硬さ。


 悠真はかすれた声を出した。


「……りん、か……?」


 凛華は笑顔のまま、返事をした。


「おはよう、悠真くん」


 声はいつも通りだった。優しく、明るく、丁寧で。


 その手には、悠真のスマホがあった。


 凛華はそれを指先で弄ぶ。軽く回す。画面を覗き込むふりをする。悠真に見せつけるように。


「ねえ」


 凛華は柔らかく問いかけた。


「どうして教えてくれなかったの?」


 悠真は頭が追いつかない。熱で思考が鈍っている。状況を理解しようとして、理解しきれない。


 凛華は続ける。声は明るい。だからこそ怖い。


「私、ずっと待ってたんだよ」


 瞳が少し潤む。泣きそうに見える。それが余計に胸を締め付ける。


「君が助けてって言ってくれるのを」


 悠真は唇を開いた。


 謝らなきゃ。


 そう思った。そうしないと、何かが壊れる気がした。


「……ごめん」


 声が弱い。情けない。自分の声が遠い。


「余裕がなくて……」


 凛華は、頷かない。


 笑ったまま首を傾げる。


「余裕がないからこそ、私に連絡すべきでしょ?」


 言葉が、理屈として正しい。


 正しいから反論できない。


 悠真の胸に罪悪感が刺さる。熱より熱い痛み。


 凛華はさらに言った。


「私は君のなんなの?」


 質問の形なのに、答えは一つしかない。


 “必要な存在”。


 “唯一の味方”。


 “助けてくれる人”。


 それを口にしないと、また孤独に落とされる気がする。


 悠真は息を吸おうとして咳き込みそうになった。喉が焼ける。痛い。


 凛華は見下ろしたまま、低い声で結論を落とす。


「……まだ、私のことを信じてくれてないんだね」


 その言葉が、悠真を縛った。


 連絡しなかった=信じていない。


 信じていない=拒絶。


 拒絶=凛華を傷つけた。


 凛華の論理が、悠真の中で強制的に組み上がっていく。


 “自分はまた、凛華を傷つけた”。


 悠真の喉が鳴る。


「違う……」


 言いたかった。


 違うんだ、と。


 ただ怖かっただけだ、と。


 凛華が過剰に反応するのが怖かった、と。


 でもそれを言えば、“凛華が怖い”と言うことになる。


 言えない。


 悠真は目を伏せた。


 凛華の微笑みが、ほんの少しだけ深くなる。


 嬉しい時の笑みではない。


 “分からせた”時の笑み。


 悠真がもう一度謝ろうとした瞬間、凛華は人差し指を悠真の唇に当てた。


「もういいよ」


 声が柔らかい。慰めみたいに聞こえる。けれど指先は、確実に“止める”ための触れ方だった。


 凛華は続ける。


「……でも、お仕置き」


 その言葉が、耳の奥に冷たく落ちる。


 凛華はスマホを持ち上げて、悠真に見せた。


「これ、私が預かっておくね」


 悠真の瞳が揺れる。反射的に手を伸ばそうとする。けれど体が動かない。熱で筋肉が言うことを聞かない。腕が鉛みたいに重い。


 凛華は優しい声で言った。


「自分勝手なことをする悠真くんには、お友達との連絡なんて必要ないでしょ?」


 自分勝手。


 その言葉が、心の奥を抉る。


 悠真は声を出せなかった。出したら、また凛華が悲しそうに笑う気がした。


 凛華は微笑んだまま、スマホを自分の鞄の底へしまった。


 ファスナーが閉まる音がした。


 “外”が閉じられる音。


 悠真の世界が、また一つ削られる音。


 悠真は唇を噛んだ。噛んだ感覚すら鈍い。涙が出そうなのに、熱で目が乾く。


 凛華はその反応を見届けるように、少しだけ悠真の顔を覗き込んだ。


「いい子」


 褒めるように言う。


 悠真の胸の奥で、何かが麻痺していく。


 次の瞬間、凛華は空気を切り替えた。


 咎めは終わり。


 断罪は終わり。


 今からは、看病。


 凛華は聖母のような慈愛の表情で、ビニール袋を取りに廊下へ出ていった。戻ってくる音が、忙しいのに丁寧だ。ペットボトルの音。袋を開ける音。タオルを濡らす音。


 凛華は濡れタオルを持ってベッドに戻り、悠真の首筋を拭った。


 冷たさが心地いい。熱い皮膚が少しだけ救われる。


 凛華は優しい声で言う。


「気持ちいい?」


 悠真は小さく頷いた。


 凛華はスポーツドリンクをコップに注ぎ、スプーンで口に運ぶ。甘い液体が喉を通る。喉が少しだけ楽になる。


 凛華は嬉しそうに笑う。


「いい子だね、悠真くん」


 その言葉は、ご褒美みたいに甘い。


 でも、さっきの“お仕置き”の冷たさが、舌の奥に残っている。


 凛華は続けた。


「……こうして私に甘えていればいいんだよ」


 言葉は優しい。抱きしめるみたいに柔らかい。


「外の世界なんて、君を傷つける人しかいないんだから」


 その言葉には、明確な意志が宿っていた。


 社会から切り離す意志。


 学校から切り離す意志。


 友人から切り離す意志。


 凛華の手の温もりは救いであり、同時に境界線を消す儀式でもある。


 悠真はぼんやり見つめた。


 凛華の横顔は、穏やかで慈愛に満ちている。


 なのにその笑顔が、どこか悲しそうに見えた。


 悲しそうに笑う理由が分からない。


 分からないのに、怖い。


 悠真の脳は熱でぼやけていく。


 凛華に咎められた恐怖。


 スマホを奪われた絶望。


 そして今、首筋を拭われ、飲み物を運ばれ、優しい声で褒められる温もり。


 その両方が混ざって、判断ができなくなる。


 苦しいのに、気持ちいい。


 怖いのに、安心する。


 この矛盾が、悠真の思考を麻痺させる。


 悠真は心の中で思った。


 (……凛華)


 (……どうして、そんなに悲しそうな顔で笑うんだ……?)


 問いは答えにならないまま、熱の波にさらわれる。


 凛華はタオルを置き、ベッドの端に腰掛けた。悠真の髪をそっと撫でる。幼い子を寝かしつけるみたいに。


 悠真の瞼が落ちる。


 意識が遠のく。


 その耳元で、凛華が消え入りそうな声で囁いた。


「……二度と、勝手にいなくならないでね」


 息がかかる。背筋がぞくりとする。


 凛華は続けた。声は震えていない。静かで、確実だ。


「次があったら……私、何をするか自分でも分からないから」


 それは愛の告白ではなかった。


 呪いの契約。


 逃げられない誓約。


 悠真は返事をできない。熱が重い。体が沈む。凛華の腕が、いつの間にか背中に回っている。


 抱きしめられている。


 温かい。


 怖い。


 その両方のまま、悠真は深い眠りに落ちていった。


 凛華の体温が、耳元の囁きが、夢の中まで追いかけてくるような気がした。

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