25話
凛華は、いつもより少しだけ早く家を出た。
空は薄い曇りで、朝の光が均一に広がっている。肌寒さはないのに、胸の奥だけが落ち着かない。理由を付けるなら、ただ単純に——悠真に会えるからだ、と凛華は自分に言い聞かせた。
待ち合わせ場所へ向かう足取りは軽い。
カバンの中には、渡すつもりのプリントが折れないように入っている。昨日、廊下で先生が配っていたやつ。悠真が取り損ねていたから、今日は渡してあげようと思った。
それと、コンビニで買った小さなお菓子。
ほんの気持ち。甘いものがあれば、朝の眠気も少しは柔らぐ。悠真の顔がふっと緩むのを想像して、凛華は口元だけ笑った。
待ち合わせ場所に着く。
凛華はスマホを確認する。時間はまだ早い。
「……早すぎたかな」
独り言の声は小さく、すぐに朝の音に溶けた。通学路には他の生徒もちらほらいる。いつも通りの朝。いつも通りの街。
凛華はそこに立った。
立って、悠真が角から現れるのを待つ。
いつもなら、少しだけ気だるげに歩いてくる。目が合うと、ほんの少しだけ表情が変わる。嬉しいのを隠すみたいに、困ったみたいに。
——それが、来ない。
時間が過ぎる。
約束の時間が近づく。
通学路を通る生徒の波が増えていく。挨拶が飛び交う。笑い声が混ざる。その中で、凛華の視線だけが一点に固定される。
角。
角。
角。
時計の針が、約束の時間を越えた。
凛華は最初、軽く考えた。
寝坊かな。
昨日、体調が悪そうだった? いや、そんなふうには見えなかった。ちゃんと笑っていた。ちゃんと返事をしていた。
凛華はスマホを取り出した。
メッセージを送る。
『おはよう。大丈夫?』
送信。
既読がつかない。
少し待って、もう一度画面を見る。
既読がつかない。
凛華の胸の奥が、チリ、と焼けた。
小さな火種。
消せるはずの不安が、消えない。
凛華は電話をかけた。
呼び出し音が鳴る。
出ない。
もう一度。
出ない。
凛華は笑おうとした。笑って、いつも通りにしようとした。
「……寝てるだけ、だよね」
声が乾く。
理由のない焦りが、指先に移る。スマホを握る力が強くなる。握りしめた指が白くなる。
それでも、凛華は歩き出した。
学校へ向かう。遅刻はできない。ちゃんと行く。ちゃんと、いつも通りに。
いつも通り。
いつも通り。
その言葉を心の中で繰り返すほど、胸の火種が大きくなる。
予鈴が鳴る。
校舎の中は、朝の慌ただしさで満ちていた。下駄箱の前。階段。廊下。教室へ急ぐ足音。
凛華は二組の前で立ち止まった。
本当なら、そのまま教室へ入るはずだった。
けれど体が勝手に動く。
一組。
悠真の教室。
凛華はそちらへ視線を流し、足を向けた。
廊下の角を曲がる。教室の扉のガラス窓越しに中が見える。
凛華は、覗き込んだ。
そこにあるはずの席。
昨日まで自分が“守った”はずの場所。
ぽっかりと空いている。
悠真の席だけが、誰も座っていない。
カバンがない。
机の上が整いすぎている。
凛華の喉が詰まった。
空席というただの事実が、胸を貫いた。
先生の声が聞こえた。たぶん、一組の担任が、朝の連絡をしている。
「……瀬戸は風邪で休みだ」
事務的な言い方。
その瞬間、凛華の視界がぐにゃりと歪んだ。
耳の奥が詰まる。音が遠のく。廊下のざわめきが、ガラス越しの水の中みたいに聞こえる。
風邪。
休み。
そんな単語が、凛華の心には入ってこない。
凛華の中で別の言葉が浮かぶ。
いない。
いない。
いない。
胸の火種が、炎になる。
凛華は教室の前で、ほんの一瞬だけ立ち尽くした。
誰にも見られたくない。誰にも気づかれたくない。凛華はそのまま踵を返し、二組へ戻った。
微笑む。
いつも通りに。
いつも通りに。
そうしないと、崩れる。
授業中。
教科書を開いているのに、文字が一つも入ってこない。
黒板の字が滑る。先生の声が意味を結ばない。ノートを取るふりをして、ペン先だけが紙の上を彷徨う。
凛華の視界の端には、いつも悠真がいた。
いたはずだった。
凛華の脳裏で、過去が勝手に開く。
幼い頃の記憶。
あの日。
ある日突然、悠真がいなくなった朝。
理由も告げられず、置き去りにされた感覚。家の前で待って、待って、待っても来ない。泣きながら母に縋っても、答えは出ない。
“知らない”。
その言葉が、凛華には世界の終わりだった。
今、その感覚がぶり返す。
風邪?
本当に?
もし、嘘だったらどうしよう。
もし、また自分の知らないところで、誰かとどこかへ行こうとしていたら?
もし、昨日の夜、熱に浮かされて「もう無理だ」と思って、誰にも言わずに消えようとしていたら?
凛華の胸がきゅっと縮む。
指が震える。
消える。
また消える。
凛華にとって「連絡がつかない欠席」は、体調不良ではない。
喪失の予兆だ。
凛華はゆっくり息を吸った。吸ったはずなのに、肺が満たされない。胸が苦しい。
スマホを見る。
既読がつかない。
電話も出ない。
画面が冷たい。
凛華の中で、何かが決壊し始める。
昼休み。
凛華は一度、健太の顔を思い浮かべた。
聞けばいい。
悠真から連絡があったか。
体調はどうか。
……でも、次の瞬間、凛華の中で別の感情が勝つ。
悠真のことは、自分だけが知っていなければならない。
悠真の“今”に触れる権利は、自分だけのはずだ。
他人を介すことは、許せない。
凛華はその考えに自分でも驚くほど、当然のように頷いてしまう。
それが独占だと分かっていても、止まらない。
午後の授業が始まる。
凛華は椅子に座ったまま、身体が浮くような感覚になった。目の前の黒板が遠い。先生の声が遠い。悠真のいない世界が、現実味を失う。
凛華は手を挙げた。
「先生、すみません……少し気分が悪くて」
声は丁寧だった。表情も崩していない。完璧な美少女の仮面のまま、保健室へ向かう許可を得た。
廊下に出た瞬間、仮面の裏側が剥がれ落ちた。
瞳の光が消える。
背筋の美しさは保ったまま、歩く速度が早くなる。
保健室へ向かうふりをして、校門へ向かう。
強迫観念が足を動かす。
“行かなきゃ”。
“確認しなきゃ”。
“守らなきゃ”。
凛華は学校を出た。
空が、さらに灰色になっていた。雨が降りそうな匂いがした。
凛華は近所のスーパーに寄った。
スポーツドリンク。ゼリー。消化のいいスープ。簡単な食料。冷えピタ。体温計がなければそれも。
カゴの中身が増えるほど、凛華の指先の震えも増える。
ビニール袋を提げた手が、カサカサと小さな音を立てる。
震えているのは寒さではない。
恐怖だ。
失うことへの恐怖。
自分の知らない時間が、悠真の側で流れていることへの恐怖。
放課後。
凛華は悠真の家の前に立っていた。
見上げると、窓は閉まっている。カーテンの隙間に光はない。昼間のはずなのに、部屋の中が暗い気がした。
玄関に向かう音が、自分の鼓動と重なる。
1歩ずつ。
1歩ずつ。
扉の前に立つ。
呼吸が浅い。
ビニール袋が震える。中のペットボトルがぶつかって、小さく音を立てる。
凛華はカバンに手を入れた。
合鍵。
金属の冷たさが指先に触れた瞬間、凛華の胸の奥がひゅっと縮む。
合鍵があること自体が、安心であり、証拠でもある。
凛華はそれを握りしめた。
目を閉じて、心の中で言う。
(大丈夫)
(私がそばにいれば、悠真くんはどこにも行かないよね)
(……私が、彼を守ってあげなきゃ)
その独白は、病人を気遣う聖女の祈りみたいでもあり、獲物を追い詰めた執着者の呪文みたいでもあった。
凛華は鍵穴に合鍵を差し込んだ。
震える指先が、うまく回らない。
もう一度、力を込める。
カチ、と小さな音。
解錠の音が、やけに大きく響いた。
凛華は扉に手をかける。
重い。
重いドアが、ゆっくり開く。
その隙間から、冷えた空気が流れ出した。人の気配が薄い、寝込んだ部屋の匂い。
凛華は一歩、踏み込む。
そして、微かに笑った。
声は小さく、優しく。
「……ただいま」
その言葉が、ここがもう“自分の場所”だと宣言するみたいに、静かな廊下に落ちた。




