24話
穏やかな日々が、続いていた。
少なくとも、表面上は。
教室の扉を開けても、もう空気が凍りつくことはない。机の上に紙切れは置かれていない。私物をいじられた形跡もない。誰かの視線が刺さることはあっても、それは「見てはいけないものを見る」視線ではなく、「冬月さんの隣にいる人を見る」視線に変わっていた。
凛華が隣にいることで、世界は平穏になる。
その平穏が、悠真の呼吸を少しだけ楽にしてくれる。
同時に、どこか息苦しい。
凛華は、以前にも増して甲斐甲斐しく世話を焼いた。
朝の登校は必ず一緒。教室に入る前に制服の襟を整えられる。昼休みは隣の席で弁当を広げ、何気ない話をする。放課後は迎えに来て、荷物を持とうとする。帰り道は、夕焼けの色や、今日の授業の小さな出来事を、飽きもせずに話す。
周囲から見れば、仲のいい幼馴染だろう。
誰もがそう思うように、凛華は“普通”に振る舞う。
そして悠真も、“普通”に応える。
笑って、相槌を打って、時々冗談を返して。凛華が喜ぶ返事を探すのが、いつの間にか上手くなっていた。
——機嫌を損ねないように。
その意識が、呼吸と同じくらい自然に胸の奥で脈打っている。
凛華が明るく笑うたびに、悠真は安心する。
凛華の笑顔が消えた瞬間のことを、想像してしまうから。
あの日、距離を置こうとしただけで世界が反転したことを、体が覚えてしまっている。だから悠真は、今日も凛華の言葉に丁寧に返し、視線を合わせ、必要以上に落ち込んだ顔をしない。
“また心配させてはいけない”。
“また泣かせてはいけない”。
そんなルールが、いつの間にか日常の内側に埋まっていた。
昼休み、凛華が笑いながら話している最中、悠真はふっと耳の奥が詰まったような感覚を覚えた。
水に潜ったみたいに、音が遠くなる。
凛華の声が、すぐそばにあるはずなのに、薄い壁越しに聞こえる。周囲の笑い声も、ざわめきも、全部が一段奥へ引っ込んだみたいだ。
「……悠真くん?」
凛華が首を傾げる。
悠真は慌てて笑った。
「ううん、なんでもない」
そう言って、弁当の箸を動かす。味が薄い。いや、もともとこんな味だったかもしれない。自分の感覚が鈍っているだけかもしれない。
“気のせい”。
悠真はそれを合言葉にした。
凛華の前で不調を見せてはいけない気がする。心配をかけることへの罪悪感もある。けれどそれ以上に、凛華が不調を知った時に起こる“何か”を、体が先に恐れている。
放課後の教室で凛華が迎えに来た時も、同じような立ちくらみがあった。
立ち上がった瞬間、視界が白くなる。机の角が歪む。足元がふわりと浮く。
悠真はすぐに机に手をついて、息を整えた。
「大丈夫?」
凛華が覗き込む。
その瞳が、心配の形をしているのが怖い。
「平気」
悠真は笑った。笑ってしまった。
凛華は安心したように微笑み、いつものように鞄をまとめてくれる。悠真は“助かる”と思いながら、どこかで“自分は何もできなくなっていく”とも思う。
凛華は上機嫌だった。
悠真の体調にまでは気づいていない——というより、悠真が気づかせない。
凛華の笑顔を守るために。
自分の体を後回しにして。
そういう順番が、今は当たり前になっている。
帰り道、夕日がアスファルトを焼いていた。
照り返しが妙に眩しい。眩しすぎて、目の奥が痛い。空の色が濃くて、息が詰まりそうになる。
凛華は隣で楽しそうに話している。今日の授業のこと。昼休みに見た子猫のこと。家で作ったクッキーが少し焦げたこと。
いつもの凛華だ。
だから悠真も、いつもの自分を演じる。
「へえ、そうなんだ」
「食べたい」
声は出る。表情も作れる。自分が“普通の幼馴染”である限り、世界は安定する。
凛華の家の角で、二人は立ち止まった。
「じゃあ、また明日ね」
凛華が手を振る。
夕日の中で、その手がやけに眩しく見えた。明日も、という言葉が、約束であり命令であり救いであるみたいに胸に落ちる。
悠真は手を振り返した。
「うん、また明日」
凛華は満足そうに微笑んで、家の中へ消えた。
悠真はその背中を見送って、初めて大きく息を吐いた。
息を吐いた瞬間、膝が少し笑う。
張り詰めていた糸が、手を離されたみたいにゆるむ。
——やっと、一人。
一人になった途端、世界の色が変わった。
家の玄関のドアを閉めた瞬間、足元がぐらりと揺れた。
さっきまで“普通”だったはずなのに、今は体の芯から重い疲労が溢れてくる。肩が落ちる。視界が暗くなる。鞄がやけに重い。
鍵をかける音が、遠い。
靴を脱ぐ動作すら面倒で、玄関で立ち尽くしそうになった。
それでもなんとか自室へ向かった。
廊下が長い。部屋のドアが遠い。壁に手をつきながら歩く自分が、どこか他人みたいに感じる。
部屋に入って鞄を置き、ベッドに腰掛けた瞬間、背中の力が抜けた。
指先が妙に冷たい。
掌が汗ばんでいるのに、指だけが冷える。体の熱の配分が狂っている感じ。
「……なんだろう、これ」
呟いた声が、かすれていた。
悠真は立ち上がろうとして、膝がふらつく。這うように洗面台へ向かった。鏡の前に立つ。
そこに映った自分の顔に、ひやりとする。
顔色が悪い。頬が白い。唇の色が薄い。瞳に力がない。目の焦点が微妙に合っていない。
まるで、じわじわと何かに侵されているみたいに見えた。
悠真は水を飲もうとして、コップを落としそうになった。指がうまく動かない。細かく震えている。
熱があるのかもしれない。
そう思って、引き出しから体温計を探した。脇に挟む。腕を閉じる。待つ。
ピッ、と乾いた音が鳴った。
悠真は数字を見た。
無視できない高さだった。
息が止まる。視界が少し揺れる。熱で額がじんと痛い。
ベッドへ戻る途中、足がもつれて壁に肩をぶつけた。痛みは鈍い。痛みが鈍いこと自体が怖い。
悠真はベッドに倒れ込んだ。
シーツが冷たい。体が熱い。矛盾した感覚が混ざって、胸が悪い。
枕元のスマホが目に入った。
連絡しなきゃ。
そう思うのに、手が伸びない。
通知欄に凛華の名前があるわけじゃない。ただのホーム画面が、冷たく光っている。
悠真はスマホを見つめたまま、ぼんやり考える。
(……風邪、かな)
(……凛華に連絡しなきゃ)
(でも、あいつに言ったら……)
何が怖いのか、うまく言葉にならない。
心配をかけることへの罪悪感。
自分が弱っているところを見せることへの恥。
それとも——凛華が“過剰に反応する”ことへの予感的な恐怖。
雨の夜、あの温もりに縋った自分。
翌朝、凛華が“宣言”した時の空気。
「私が全部守ってあげる」という言葉の甘さ。
甘さの裏にある、逃げ道のなさ。
悠真はスマホを握りしめかけて、力を抜いた。
結局、画面を触らないまま、スマホを枕元へ置いた。
それが正しいのか、間違いなのか分からない。
分からないまま、瞼が重くなる。
熱が体を引きずり込んでいく。
深い眠りに落ちていく意識の縁で、悠真はふと、自分の心に浮かんだ疑問に気づいた。
——どうして、あんなに怖がってるんだろう。
熱のせいかもしれない。
それとも、凛華の最近の態度のせいかもしれない。
凛華の献身。
凛華の執着。
あれはいつから、あんな形になったんだろう。
問いの輪郭が掴めないまま、悠真の意識は途切れた。




