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あの日、泣き虫だった君は隣のクラスで「高嶺の花」と呼ばれている  作者: 風莉


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23話

 翌朝。


 校門の前で立ち止まった瞬間、悠真の胸の奥がきゅっと縮んだ。ここをくぐれば、あの空気が待っている。昨日まで自分を断罪していた視線。誰かの正義の形をした悪意。息をするだけで罪になる教室。


 けれど隣には、凛華がいた。


 凛華は何も言わず、悠真の手を取った。昨日の雨の中と同じ、指先の温度。震えを止めるための熱。拒絶を許さない熱。


「行こ」


 小さな声で言って、凛華は悠真を引いた。引きずるのではなく、導くみたいに。


 校門をくぐる。


 視線が一斉にこちらへ向いた。


 刺さる。確かに刺さる。けれど昨日みたいに、言葉は飛んでこない。笑い声もない。舌打ちも、空気の奥に沈められている。


 凛華の隣にいるだけで、誰も手を出せない。


 それが救いだと、悠真は思ってしまう。


 救いだと思ってしまうことが、怖いのに。


 凛華は二組の教室の前で足を止めた。そこには、凛華を心配して集まってきた女子のグループがいた。昨日まで悠真を睨んでいた男子も数人、壁のように立っている。


 みんなが凛華の顔色を窺う。


 凛華は微笑んだ。


 完璧な、聖女の微笑み。


 誰もが救われたいと思う微笑みなのに、その奥にある冷たさが、悠真には分かってしまう。優しいまま、従わない者を許さない冷たさ。


「みんな、昨日はいろいろ心配してくれてありがとう」


 声は穏やかで、丁寧で、感謝の形をしていた。だから周囲はほっとしたように頷く。救われた気分になる。


 凛華は悠真の手を少しだけ強く握った。


「でも、悠真くんとのことはもう解決したの」


 “解決”。


 昨日の地獄が、たった一言で過去になる。そういう言葉。


 凛華は続ける。視線を周囲に向けながら、悠真の存在を堂々と世界に置く。


「……彼は、世界で一番私を大切にしてくれる人」


 その言葉は、悠真の胸を温めるより先に、重く縛った。


 大切にする人。


 世界で一番。


 それは褒め言葉であり、契約だ。


「だから、彼を傷つけることは、私を傷つけることと同じだって……分かってほしいな」


 語尾は柔らかい。


 “分かってほしいな”なんて、お願いの形をしている。


 でもお願いじゃない。


 命令でもない。


 もっと厄介な、“正しさ”だ。


 凛華という正義を傷つける覚悟がないなら、悠真に触れるな——そういう宣言だった。


 周囲の空気が沈む。女子の誰かが笑顔を作ったまま固まる。男子の一人が目を逸らす。凛華の微笑みに逆らう言葉を、誰も持たない。


「……そっか、よかった」


 誰かが、ようやく息を吐くみたいに言った。


「冬月さんがそう言うなら……」


 そう言うなら。


 結局、全ては凛華の言葉で決まる。


 悠真はその場に立ったまま、胃の底が冷えるのを感じた。自分を守ってくれている。守ってくれているからこそ、自分はもう“凛華の領域”になる。


 凛華は一度だけ悠真を見上げ、微笑んだ。


 その笑顔を拒む理由が、悠真にはもう見つからなかった。


 一組の教室に入ると、空気が反転していた。


 昨日までの静寂は同じなのに、意味が違う。あれは断罪の静寂だった。今日は、気まずさの静寂だ。


 悠真が席へ向かう途中、誰も声をかけない。誰も笑わない。目が合うと、視線が逸れる。昨日まであれほどはっきり向けられていた敵意が、形を失って沈んでいる。


 凛華の「お墨付き」を得たことで、悠真はいじめの対象から外れた。


 正確には、いじめてはいけない対象になった。


 冬月凛華の不可侵な領域。


 触れたら、凛華の正義に触れることになる。


 その怖さが、教室の中に広がっている。


 机の上に紙はなかった。鞄の位置も変わっていない。筆箱も無傷だ。昨日までの見えない針が、嘘みたいに消えている。


 代わりに、別の滑稽さが現れる。


「……いや、誤解だったんだよ」


 前の席の男子が、誰にともなく言った。聞こえるように、でも責任を負わない程度の声で。


「昨日はさ、ちょっと勘違いしてただけで」


 勘違い。


 勘違いで人を地獄に落とせるのか、と悠真は思った。怒りより先に、冷めた感情が湧く。


 昨日、責任を取れと紙を置いたのは誰だ。


 邪魔と書いたのは誰だ。


 今それを言っている口と、同じだろうか。違うだろうか。分からない。分からないから余計に、全員が同じに見える。


 凛華に睨まれるのが怖いから取り繕う。


 悠真を思っての謝罪ではない。


 凛華という存在に、屈しただけだ。


 悠真はノートを開いて、教師の声を聞くふりをした。胸の奥に、どこか空洞が増えた気がした。世界が薄くなっていく。人への期待が剥がれていく。


 代わりに、凛華の影だけが濃くなる。


 昼休み。


 屋上へ続く踊り場は、風が強かった。悠真はそこにいた。凛華は研修や何かで、今だけいない。久しぶりの“独り”のはずなのに、独りではない気がした。背中に常に、凛華の温度がある。


 足音がして、健太が現れた。


 躊躇いがある歩き方。距離の測り方。昨日までの健太とは違う。


「……悪かったな」


 健太はそう言った。謝罪に近い言葉。けれど目が、悠真ではなく、その後ろの空間を見ている。


 凛華の影を恐れている。


 悠真は、それに気づいてしまう。


 健太が見ているのは自分じゃない。自分の背後にいる“冬月凛華”だ。


 だから謝る。


 だから距離を戻そうとする。


 自分を失いたくないのではなく、自分の安全を確保したいだけだ。


 悠真の喉が動いた。言いたいことはたくさんある。昨日のこと。自分が何をしたのか、していないのか。どうしてこうなったのか。


 でもそれを話す力がない。


 話したところで、健太は信じるだろうか。


 信じたとして、守ってくれるだろうか。


 守ってくれない。


 守れない。


 悠真は分かっている。もう誰も、自分を見ていない。


 悠真が口にしたのは、短い言葉だった。


「……いいよ。もう気にしてないから」


 許し。


 許しという形の終わり。


 健太はほっとしたように笑った。その笑いが、昔の笑いに似ているのが残酷だった。似ているのに、戻らない。


「……またさ、前みたいに——」


 健太が言いかけて、止めた。言葉の続きを自分で信じていない。


 悠真は何も言わなかった。


 沈黙の中で、二人の距離だけがはっきりする。


 埋まらない。


 埋めない。


 その事実が、悠真の中で外の世界への執着をさらに薄くした。


 友人は、もう友人ではない。


 この学校で、自分の味方はひとりだけだ。


 ひとりだけでいい、と胸のどこかが言ってしまう。


 それが怖いのに、安心してしまう。


 放課後。


 教室の窓の外が夕色に染まり始めた頃、凛華が迎えに来た。扉を開ける音が軽い。入ってくる足音が迷いない。悠真の席へ真っ直ぐ来る。


「お疲れさま」


 凛華は微笑んだ。その笑顔を見ると、胸がほどける。今日一日張りつめていた糸が、凛華の声だけで緩む。


 凛華は悠真の鞄を手に取り、荷物を丁寧にまとめ始めた。プリントを揃え、ファイルに挟み、ノートの角を撫でるように整える。まるで、悠真を“汚れ”から守る儀式みたいに。


「ね?」


 凛華が言う。嬉しそうに、確信を持って。


「私が言った通りでしょ」


 悠真は何も言えない。


 言った通り。


 確かにそうだ。凛華が言った通り、今日は何も怖いことは起きなかった。紙もない。砂もない。針もない。


 凛華が隣にいる限りは。


 凛華は悠真の制服の袖口を軽く払った。埃を落とすみたいに。触れた指先が優しくて、その優しさが怖い。


「……悠真くんは、私の隣にいれば、何も怖いことなんてないんだよ」


 囁きは甘い。


 甘いからこそ、断れない。


 それは救いの形をしている。悠真は救われている。救われているのに、救いの中に依存が仕込まれているのが分かってしまう。


 凛華は悠真の手を取り、指を絡めた。自然な動き。恋人みたいな動き。拒む理由がない動き。


 悠真は立ち上がった。


 凛華に導かれて、教室を出る。


 廊下の空気が変わる。すれ違う生徒の視線が逸れる。恐れているのは悠真ではなく、凛華だと分かる視線。


 それでも、心が軽くなるのが怖い。


 夕陽の中、二人で帰る。


 暖色の光が凛華の髪を縁取る。凛華は時折悠真の顔を覗き込み、嬉しそうに笑う。自分がここにいることを確かめるように。


 悠真はその笑顔を見ながら、安らぎを感じてしまう。


 もう怯えなくていい。


 もう針に刺されなくていい。


 でも同時に、分かっている。


 今の自分は、凛華という巨大な盾に隠れているだけだ。


 盾の外に出た瞬間、また地獄が始まる。


 盾の中にいれば、息ができる。


 息ができるほど、外に出られなくなる。


 悠真は夕陽を見上げた。眩しくて、目を細める。涙が出そうになるのは、光のせいだけじゃない。


 凛華の手が、少しだけ強く握り返してきた。


 その手の温もりが、歪んだ幸福感として、悠真の胸に静かに沈んでいった。

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