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あの日、泣き虫だった君は隣のクラスで「高嶺の花」と呼ばれている  作者: 風莉


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21話

 教室の扉を開けた瞬間、音が落ちた。


 ざわめきが消えるのではない。最初から無かったみたいに、空気が静かだった。人がいるのに、呼吸だけが整列している。視線が、机の脚の高さで揃う。物理的に重い、と悠真は思った。湿度でも温度でもない、“罪”の重さが空間に溜まっている。


 昨日までの地味な嫌がらせは、もう前段階だったのだと理解する。


 あれは“嫌がらせ”だった。


 今日は、“正当な報い”になっている。


 自分の席に近づくほど、視線が背中に刺さる。刺さるのに、誰も直接言わない。言わなくても、罰は置いてある。


 机の上。


 白い紙が、目立つように置かれていた。


 折り目もなく、まっすぐに。


 そこに太いペンで書かれている。


『泣かせたなら責任取れ』


 もう一枚。


『調子乗んなよ転校生』


 言葉が、紙の上で乾いている。乾いた言葉なのに、濡れた手で触るみたいに気持ち悪い。


 悠真は紙を掴もうとして、指が止まった。触った瞬間に、“自分が罪を認めた”みたいになる気がした。認めていないのに。説明する機会もないのに。


 鞄を机の横に置くと、ファスナーの位置が微妙に違うのに気づいた。自分の手癖じゃない。筆箱の向きも変わっている。ノートの順番も入れ替わっている。


 壊されてはいない。


 ただ、触られている。


 触られた事実だけが、残る。


 誰がやったのか分からない。首謀者が一人ならまだ救いがある。一人なら、憎める。怒れる。対処できる。


 でもこれは違う。


 クラス全員が、凛華という「正義」のために、自分を罰していいと思っている。


 その空気が、教室の壁に染みている。


 悠真は席に座った。


 座った瞬間、椅子の脚がきいと鳴った。その音だけが、やけに大きかった。全員がその音を聞いている気がした。


 チャイムが鳴るまでの数分が、異様に長い。


 どこを見ても、自分の居場所がない。


 黒板を見るふりをして、ノートを開くふりをして、息をする場所だけ探している。


 休み時間になった。


 誰かが話し始める気配がない。話しているのは、いつも通りのはずなのに。悠真の周囲だけ、透明な壁があるみたいに静かだ。そこに健太の足音が近づく。


 いつもなら、救いだった足音。


 今日は、裁判の足音に聞こえた。


「……悠真」


 健太の声は低い。距離を測る声だ。


 顔を上げると、健太は立っていた。目が合った瞬間、悠真は息が止まった。


 軽蔑に近い表情。


 怒っているというより、“判断”している顔。


「お前、冬月さんに何したんだよ」


 質問の形をしているのに、答えは決まっている。答える余地がない。


 悠真は口を開く。


「俺は——」


「二組の女子から聞いたぞ」


 健太は言葉を被せる。裁判の証人を出すみたいに。


「彼女が、泣きそうな顔で教室戻ってきたって」


 泣きそうな顔。


 凛華が泣きそうな顔をしていたのは、本当だろう。悠真が振りほどいたから。置いていったから。拒絶したから。


 でも——


 そこにあるのは、事情ではない。


 結果だけだ。


「……悪いけどさ」


 健太は目を逸らした。逸らしてから、吐き捨てるみたいに言う。


「今回ばかりは、俺もフォローできないわ」


 フォローできない。


 その言葉が、決別だった。


 唯一の友人だった人間が、自分を「敵」と見なして去っていく。


 悠真は、自分の言い分を聞いてくれる人間がこの学校に一人もいないことを悟る。


 悟った瞬間、世界の色が一段薄くなった。


「……俺、何も——」


 言いかけた声は、健太の背中に届かなかった。届く前に、背中が遠ざかった。


 机の上の紙が、視界の端で白く光っている。


 『責任取れ』


 責任とは何だ。


 責任を取るとは、凛華の隣に戻ることか。


 そういう答えが、空気に漂っている。


 昼休み、廊下。


 悠真は壁に沿って歩いた。人の流れの真ん中に入れば、視線の矢が増える気がした。遠回りをしてもいい。時間がかかってもいい。目立たなければ。


 そんな小さな願いすら、叶わなかった。


 二組の教室の前を通りかかった瞬間、声が落ちてくる。


「……あれが例の奴か」


 わざと聞こえる声。


 囁きの形をしているのに、届くように調整された音量。


「冬月さんが可哀想だよな。あんな奴を幼馴染だと思ってたなんて」


 幼馴染。


 その言葉が、刃になる。


 凛華と自分の過去まで、汚された気がする。


「早く消えればいいのに」


 消えればいい。


 暴力はない。叩かれない。蹴られない。だから教師は動かない。動けない。


 けれど、言葉の刃は全方位から飛んでくる。


 悠真の体の内側だけを、じわじわと削っていく。


 目が熱くなる。視界が揺れる。泣きたくない。泣いたら負ける。負けるという考え方自体がもう罰の世界のものなのに、悠真はそのルールでしか立っていられない。


 逃げ場を探した。


 図書室の隅。屋上の階段の踊り場。人気のない渡り廊下。


 どこへ行っても、視線がある気がした。


 気のせいじゃない。


 実際に、数人の女子が遠くでこちらを見ている。二組の子かもしれない。凛華と仲のいい子かもしれない。あるいはただの噂好きかもしれない。


 けれど、悠真にとって違いはない。


 見張られている。


 監視されている。


 自分の行動が、凛華という「正義」の名の下に採点されている。


 悠真はトイレの個室に閉じこもった。


 鍵をかける。狭い空間。タイルの匂い。換気扇の音。ここなら、誰にも見られない。


 そう思ったのに、隣の個室から笑い声が聞こえた。


「あいつ、まだ学校来てんの?」


 笑い声が重なる。


「メンタル強すぎだろ」


 強いわけじゃない。来るしかないだけだ。来なければ、もっと終わる気がするから。そうやって縋っているだけなのに、“強い”という言葉で嘲られる。


 悠真は口を押さえた。呼吸が乱れそうだった。肩が震える。震えても音を立てないように、体を固める。


 震える手でスマホを見た。


 通知は、ひとつもない。


 健太からも。誰からも。凛華からも。


 世界から切り離された感覚が、指先から腕を伝って胸に広がっていく。


 自分はここにいるのに、誰の世界にもいない。


 放課後。


 悠真は人目を避けるように校舎を出た。廊下の隅を歩き、階段の端を下り、視線が集まりそうな場所を避ける。


 校門が見えた瞬間、少しだけ呼吸が楽になった。


 外に出れば、学校の空気から離れられる。離れれば、少しは——


 校門を出たところで、視線に気づいた。


 少し離れた場所。


 電柱の影。夕方の光の中。


 そこに凛華が立っていた。


 悲しげな瞳。


 それでいて、どこか「待っている」ような瞳。


 手は差し出されていない。


 声もかけてこない。


 ただ、そこにいる。


 悠真の世界が崩れる瞬間を、見届けるみたいに。


 悠真は一歩も動けなかった。


 駆け寄れば、鎖が完成する。凛華の隣だけが安全になって、もう戻れない。


 逃げれば、凛華をまた泣かせたと“正義”が加速する。今よりもっと、全方位が敵になる。


 どちらも地獄だ。


 地獄の分かれ道で、悠真は立ち尽くした。


 学校という場所が、完全に地獄に変わった。


 自分が立っている場所が、どこにもない。


 その事実が、足元からじわじわと崩れていく。

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