20話
砂。隠された教科書。折られた芯。ノートに残された「邪魔」。どれもが小さくて、誰にも訴えられなくて、だからこそ確実に心を削る。削られて削られて、最後に残った答えが——凛華と離れること、だった。
凛華が来るから空気が冷える。
凛華が隣に立つから刺が増える。
凛華が“守る”から、自分は“狙われる”。
そんな理屈を、頭の中で何度も組み立てた。組み立てたたびに、胸が痛んだ。凛華が悪いわけじゃない、と言い聞かせた。言い聞かせるほど、悪者を作らずに済む代わりに、逃げ道がなくなる。
朝、待ち合わせ場所を避けた。
校門の前の角を曲がる前に、足を止めて別の道へ逸れた。凛華が立っているかもしれない場所を遠目に見るのも怖かった。見た瞬間、足がそちらへ向かってしまう気がして。
教室に入るときも、視線は床に落とした。誰かが自分を見ているのか、笑っているのか、確かめない。確かめたら壊れる。
休み時間は図書室へ逃げた。
図書室の隅。背の高い書架の陰。窓際の席ではなく、入口から見えにくい場所。凛華が来そうにない場所を選んで、息を潜めた。
ページをめくっているふりをする。文字は頭に入らない。耳だけが音を拾う。足音。扉の開く気配。誰かの笑い声。
来ないでくれ、と願うたびに、別の願いが混ざる。
——来てほしい。
そう思ってしまう自分が怖くて、悠真はさらに深く身を隠した。
スマホが震えた。
画面に凛華の名前が表示される。胸が跳ねた。指が震えた。開かずに伏せてしまいたかった。でも、無視すればするほど、凛華は探しに来る。探しに来て、優しくして、盾になって、刺が増える。
だから——短く。
震える指で文字を打った。
『しばらく一人にしてほしい』
送信のボタンを押した瞬間、息が詰まった。心臓が早鐘を打つ。画面を伏せた。まるで罪の証拠を隠すみたいに。
拒絶。
その二文字が、想像以上に重かった。
放課後、図書室の裏。
人影がまばらで、風が通る。校舎の角は日陰になっていて、空気が少し冷たい。悠真はそこに逃げ込んだつもりだった。最後の一息だけ、吐くために。
けれど、足音がした。
軽い。規則的。迷いがない。
悠真は背中が硬くなる。振り返らなくても分かる。分かってしまう。
「悠真くん」
声が落ちた。
凛華だった。
怒っていない。声の温度はいつも通り。だからこそ、逃げられない。
悠真が振り返ると、凛華は数メートル先に立っていた。制服の襟元が整っている。髪も乱れていない。けれど、瞳が少し潤んでいるように見える。泣きそうではないのに、泣いてしまいそうな“静けさ”がある。
凛華はゆっくり歩いてきた。
追い詰めるようではない。追いつくように。置いていかれないように。
「どうして……?」
凛華の声は小さかった。質問というより、確かめる祈りに近い。
「連絡も返してくれないし、私の顔も見てくれない」
悠真は視線を落とした。目を合わせたら、折れる。彼女の目の中に映る自分が、悪者になる気がする。
「私、何か怒らせるようなことしたかな」
その言葉が一番苦しかった。
怒らせたくて距離を取っているわけじゃない。傷つけたくないから距離を取っている。なのに、結果として傷つけている。
悠真は喉の奥から言葉を引きずり出した。
「……凛華が悪いわけじゃないんだ」
声が弱い。自分でも情けないくらい弱い。強く突き放せない。突き放したら、凛華が壊れる気がして。
「でも、君と一緒にいると……なんだか……上手くいかないんだ」
上手くいかない、という曖昧な言葉。責めていないようで、実は一番残酷だと分かっている。それでも、具体的に言えない。具体的に言えば、凛華を“原因”にしてしまうから。
「もう……放っておいてほしい」
懇願だった。
拒絶の形をしているのに、お願いみたいに聞こえる。拒絶しきれていない。甘い。凛華に付け入る隙がある。
凛華は一瞬、瞬きをしないで悠真を見つめた。
そして、ゆっくり首を振った。
「……放っておくなんて、できないよ」
声は優しい。優しいまま、拒否は許さない。
「だって、悠真くんは一人じゃ何もできないじゃない」
胸がきゅっと縮んだ。
それは悠真が一番恐れている言葉だった。自分の価値が“自立”にないなら、自分は何で存在しているのか分からなくなる。
凛華は続ける。昔話を、宝物みたいに取り出す。
「昔、私が泣いてた時に助けてくれたみたいに」
幼い凛華。泣き虫。後ろに隠れていた少女。手を引いた悠真。
その写真の匂いが、脳裏に蘇る。
「今は私が君を助ける番なのに」
番。
その言葉が輪のように悠真を縛る。逃げることが“順番の破壊”になる。恩返しを拒むことが“裏切り”になる。
凛華は一歩、踏み出した。
距離が縮まる。息が混ざるほどではない。でも、近い。近いと、拒絶の言葉が消える。
凛華の指が、悠真の制服の袖に触れた。
そっと。
けれど、指先の力が確かだった。握る。離さない。柔らかいまま、強い。
「ねえ、思い出して」
凛華の声が、少しだけ低くなる。叱っていない。泣いてもいない。ただ、逃げ道を塞ぐ温度。
「あの時、私を置いていかないって約束してくれたよね」
約束。
そんな約束を、した覚えはない。言葉としては言っていないはずだ。けれど、行動が約束になってしまう。泣く凛華を放っておかなかった。それが“置いていかない”の証拠になる。
凛華は微笑んだ。悲しい顔のまま、優しく。
「あの優しい悠真くんが、私を捨てるなんてこと……あるはずないよね?」
“優しい悠真くん”。
その呼び方が、重圧だった。
優しさを期待される。善性を前提にされる。拒絶が“悪”に変換される。
悠真は袖を握られた手を振り払えなかった。振り払えば、凛華を傷つける。傷つければ、自分は最低になる。最低になれば、もっと居場所がなくなる。
だから、立ち尽くすしかない。
凛華の指が、悠真の袖をさらに確かに掴む。そこに小さな震えが伝わる。凛華自身も怖いのだろう。捨てられることが。置いていかれることが。
その恐怖を、悠真が引き受ける形になっている。
悠真の喉がきゅっと鳴った。
言葉が出ない。
拒絶が届かない。
凛華の前では、拒絶が音になっても意味にならない。意味になる前に、“優しさの物語”に組み込まれてしまう。
悠真は、やっと口を開いた。
「……ごめん」
それだけ。
謝罪は、拒絶ではない。拒絶できない代わりの、逃げる準備の言葉だった。
悠真は凛華の手を、乱暴にではなく、丁寧に解いた。指を一本ずつ外す。傷つけないように。泣かせないように。
凛華の手のひらが、空に取り残される。
悠真はそのまま、逃げるように走った。
背中に呼び止める声はなかった。追いかけてくる足音もなかった。
それが、逆に怖かった。
凛華はその場に残った。
風が吹く。廊下の遠くで生徒の声がする。校舎の影が伸びていく。
凛華は自分の手のひらを見つめた。
さっきまで、そこにあった袖の感触。布の温度。悠真の体温。それが消えた。
表情は動かない。
泣いていない。怒っていない。笑ってもいない。
ただ、無表情のまま立ち尽くしている。
手のひらをゆっくり握りしめ、そして開く。
空っぽ。
空っぽなのに、その空っぽが許せない、という静かな気配だけが残る。
翌朝。
悠真が教室に入った瞬間、空気が変わっているのが分かった。
昨日までの、地味な嫌がらせ——砂、隠し物、折れた芯——そういう“見えない針”は、消えていた。
代わりに、もっとはっきりしたものが教室を満たしていた。
沈黙。
視線。
そして、“判断”。
悠真が席に向かう途中、話していたはずの声が消える。笑い声が途切れる。誰かが咳払いをする。
その静けさの中で、悠真の存在だけが浮く。
誰もわざとらしく避けない。ぶつからない。嫌がらせもない。
ただ、誰も近づかない。
近づいてはいけないもの、みたいに。
悠真が席に座ると、後ろの席の誰かが小さく言った。
「……冬月さん、昨日泣いてたらしい」
囁きが、蜘蛛の糸みたいに広がっていく。
別の誰かの声。
「最低じゃん」
また別の声。
「弄んだんでしょ」
悠真の耳に入るのは、断片だけだ。でも断片で十分だった。
冬月さんを泣かせて弄んだ最低な男。
そのレッテルが、完成している。
悠真は息ができなかった。
自分が距離を置こうとした結果、皮肉にも自分の世界がさらに狭くなっている。
凛華から離れようとしたのに、凛華の影が、教室全体に落ちている。
凛華の“泣いた”という事実ひとつで、全方位が敵になる。
そして、敵になった瞬間から、凛華の隣だけが“安全地帯”になる。
凛華なしでは一歩も歩けない。
そういう形に、社会が組み替えられていく。
悠真は机の上のノートを見つめた。ページは白い。何も書かれていない。何も書かれていないのに、そこにはもう「邪魔」よりも重い文字が見える気がした。
——最低。
——裏切り。
——泣かせた。
悠真は唇を噛んだ。
拒絶は届かない。
鎖は見えない。
見えない鎖が、昨日より確かに強くなっていることだけが分かった。




