16話
朝は、学園祭の余韻なんて一切残っていない顔をしていた。
校門をくぐる。廊下を歩く。教室へ向かう。
ただの登校――のはずなのに、悠真の足取りは重かった。靴底が床に触れるたび、視線が刺さる気がする。
気のせいじゃない。
一組の前に立った瞬間、胸の奥がひゅっと縮んだ。
扉の向こうから聞こえるはずの雑談が、妙に途切れ途切れだ。誰かが笑っているのに、笑いが薄い。
悠真は息を整えようとして、結局できないまま扉を開けた。
――会話が止まった。
音が、途切れる。
紙をめくる音も、椅子のきしむ音も、妙に目立つ。
視線が集まる。ねっとりした視線。
こちらを“人”として見るんじゃなく、噂の塊を見ている目。
学園祭での目撃。
凛華の家。
特別棟。
そこに勝手な物語が付け足されて、もう誰の手にも戻らない。
悠真は自分の席へ向かった。
席に座るだけで、背中が熱い。背中に刺さる視線が、痛みを伴っている。
隣の席の男子が、わざとらしく椅子を引いた。距離を取るみたいに。
別の男子が、鼻で笑った。
「……チッ」
舌打ちが、聞こえる距離で落ちる。
悠真は、反射で肩をすくめた。
怒りより先に来るのは、胃が冷える感覚だ。
――平穏なモブ生活。
それはもう、跡形もなく消えていた。
授業の準備をするふりをして、悠真は目を伏せる。
見返したら負けだと思った。
見返したら、何かが壊れると思った。
でも、もう壊れている。
それを認めたくなくて、ただ静かに息をしていた。
⸻
休み時間。
悠真が顔を上げると、机の前に影が落ちていた。
「よお、悠真」
佐藤健太だ。
いつもなら、勝手に椅子を引いて隣に座り、くだらない話を始める。
なのに今日は、立ったままだった。声も、少し固い。
「……何」
悠真はなるべく普通に返したつもりだった。
健太は眉をひそめて、声を落とす。
「お前、マジで大丈夫か?」
その言葉だけで、悠真の胸がきゅっと縮む。
心配されるのが、今は痛い。
「二組の奴らがさ、お前のこと相当目の敵にしてるぞ。『冬月さんをたぶらかした』とか、勝手なこと言われてさ」
――ほら。
悠真の中で、何かが冷えた。
健太は心配している。分かっている。
でも、その心配の形が、もう“噂の前提”を飲み込んでいる。
たぶらかした。
そういう関係。
冬月さん。
健太の言葉は、悠真の傷口に指を突っ込むみたいだった。
「……別に」
悠真は短く言った。
「放っておいてくれ」
健太が目を見開く。
「は? いや、放っておける状況じゃ――」
「放っておいてくれって言ってるだろ」
声が強くなった。
強くなった自分に、悠真は内側で驚く。
でも止められない。
健太の顔が、少しだけ傷ついた色になる。
その色を見た瞬間、悠真は罪悪感に刺される。
――違う。
――お前が悪いんじゃない。
そう言いたいのに、口が動かない。
健太は何か言いかけて、結局言葉を飲み込んだ。
「……分かったよ」
軽く言って、軽く背を向ける。
軽いふりをするのが、健太の優しさだった。
悠真はその背中を見送って、心の底が静かに沈むのを感じた。
唯一の味方だったはずの相手まで、遠ざけた。
自分で。自分の口で。
教室に残るのは、視線と噂と、居場所のなさだけだ。
⸻
昼休みが来る前から、悠真は決めていた。
ここにいると削られる。
息をするだけで、削られる。
だから逃げる。
チャイムが鳴るのと同時に、悠真は鞄から弁当を取り出し、誰にも目を合わせず教室を出た。
中庭へ向かう。
屋上へ上がる階段の方へ向かう。
どちらでもいい。ただ“人の目”から離れたい。
階段の踊り場は、少しだけ静かだった。
外の空は青い。学園祭の飾りは片付けられて、現実に戻った校舎がやけに白い。
悠真は中庭の端のベンチに座った。
やっと、視線が減る。
弁当の蓋を開ける。
箸を持つ。
口に運ぼうとした、その瞬間。
「悠真くん、みーつけた」
声が降ってきた。
悠真の手が止まる。
凛華だった。
当然みたいな顔で、当然みたいな距離で、そこにいる。
彼女は周囲の空気を意に介さない。遠巻きの視線がどれだけ刺さっていようと、まるで背景にしか見えていないみたいに、悠真へ駆け寄ってくる。
「やっぱりここにいたんだね」
穏やかな微笑み。
独占的な微笑み。
「……一人で寂しくなかった?」
悠真は笑えなかった。
「別に」
口から出たのは、それだけだ。
凛華は悠真の隣に座る――のではなく、少しだけ角度を変えて座った。
“二人”がよく見える位置に。
見せつけるのに最適な位置に。
悠真は背中にまた視線を感じた。
さっきまで減っていた針が、ここに集まってくる。
凛華は、その針を“存在しないもの”のように扱う。
「みんな、酷いよね」
凛華は小さく息を吐く。
「悠真くんは何も悪くないのに」
悠真は箸を握り直した。
悪いかどうかを決めるのは、自分じゃない。
周囲が勝手に決めて、勝手に刺してくる。
凛華は続ける。
優しい声で、ゆっくりと。
「……でも、いいじゃない」
悠真の胸がわずかに跳ねる。
「周りに誰もいなくなっても、私だけはずっと悠真君の隣にいるから」
“誰もいなくなっても”。
その言葉は慰めの形をしているのに、どこか“結果を肯定している”響きがあった。
孤立が前提。孤立は既定。そこに自分がいるから大丈夫。
凛華は、弁当の中のおかずに箸を伸ばした。
勝手に取るわけじゃない。いったん悠真の顔を見る。
「ねえ」
無邪気な声。
「あーん、して?」
冗談みたいな顔で。
でも目は笑っていない。
悠真の耳が熱くなる。周囲の視線が、さらに濃くなる。
これは“じゃれ合い”の皮を被った、宣言だ。
――彼は私のもの。
そう言っているのと同じだ。
「……やめろよ」
悠真は小声で言った。
凛華は首をかしげる。
「どうして?」
本当に分からないみたいに。
「幼馴染でしょ?」
免罪符。
それが最悪の武器になる。
悠真はおかずを口に運んだ。
味がしない。
嫌悪感がある。
それでも、心のどこかが折れそうになる。
この四面楚歌の中で、自分に優しくしてくれるのは凛華しかいない。
それが事実になりつつある。
凛華の笑顔が、救いに見えてしまう。
救いに見えるから、余計に怖い。
⸻
放課後。
悠真は教室を出るタイミングすら測れずにいた。
早く出れば目立つ。遅く出ても絡まれる。
結局、誰もいなくなりかけた頃を見計らって、静かに立ち上がる。
鞄を肩にかけ、校門へ向かう。
――また視線。
すれ違う生徒が囁く。
「また一緒かよ」
「アイツ、マジで調子乗ってるな」
悠真は聞こえないふりをした。
聞こえないふりをするのが、唯一の防衛だった。
校門の前に、凛華がいた。
待っているのが当たり前みたいに立っている。
まるで“迎えに来た”というより、“回収に来た”みたいに。
凛華は悠真に近づき、袖を軽く掴んだ。
力は弱い。なのに、ほどけない。
上目遣いで、柔らかく告げる。
「ねえ、今日は私の家で、一緒に課題しよう?」
悠真の喉が鳴る。
凛華は微笑みを崩さないまま、付け足した。
「お母さんも楽しみにしてるよ」
逃げ道が、閉じる音がした。
凛華の家なら、あの視線は遠い。
凛華の家なら、刺されない。
凛華の家なら――息ができる。
そう思ってしまった時点で、もう負けているのに。
悠真は、短く頷いてしまう。
「……分かった」
凛華の笑顔が、少しだけ濃くなった。
歩き出す。
学校を離れるのに、背中の重みは消えない。
凛華の袖を掴む指先が、悠真を導く。
導くというより、決められた道へ乗せるみたいに。
悠真は気づいた。
自分は今、凛華以外の人間との繋がりを、少しずつ失っている。
失っているのに、抵抗できない。
抵抗するほど、刺されるだけだから。
祭りが終わったのに、日常は戻らない。
戻らない日常の中で、凛華の家だけが“静けさ”を約束する。
それがどれほど危険な檻なのかを、分かっているのに。
悠真はその檻へ、自分の足で踏み入れていった。




