15話
扉を閉めた瞬間、世界の音が薄くなった。
外の喧騒はまだ遠くにあるはずなのに、壁を一枚挟むだけで別の場所みたいになる。特別棟の空き教室は、学園祭の日ですら冷えていて、床に落ちた光が白い。
悠真は椅子に深く腰を下ろした。
肩に入っていた力が、遅れてほどける。
肺の奥に残っていた熱い空気を、ようやく入れ替えられる気がした。
――ここなら、見られない。
視線がない。囁きがない。舌打ちがない。
ただ、静かだ。
向かい側の席に、凛華が座っていた。
近すぎない。遠すぎない。机を一つ挟んだ距離。
彼女は椅子に背を預けず、背筋を伸ばしている。手は膝の上で重ねられていて、表情は柔らかいのに、目だけが悠真を離さない。
悠真は、その視線を“優しさ”と呼べるのか分からなかった。
「落ち着いた……?」
凛華が、穏やかな声で言った。
「外、相当ひどかったみたいだね」
どこか突き放しているのに、同時に“自分だけが分かっている”という静かな確信が混じっている。
悠真は返事をする前に、喉の奥を湿らせるように息を吐いた。
「……ひどいっていうか」
言葉が詰まる。
何がひどいのか、説明するだけでまた刺される気がする。
それでも言わないと、ここにいる意味がなくなる。凛華は“聞くために”ここを用意したのだと、どこかで分かっていた。
「……見知らないやつにまで、睨まれた」
出てきたのは、情けないほど短い告白だった。
「すれ違うたびに、なんか……」
指先が勝手にこわばる。背中がまだ、針で刺された感覚を覚えている。
「……俺、ああいうの、無理なんだよ」
視線。噂。勝手な物語。
人が自分を“何か”に決めつけるのが、息苦しい。
凛華は静かに頷いた。
「ひどいね」
即答だった。迷いがない。
その迷いのなさが、少し怖い。
でも、同時に救われる。
凛華は机の上に視線を落とし、淡々と続けた。
「みんな、勝手だよね」
そして、すぐに付け足すように言う。
「……佐藤くんも」
悠真の眉がわずかに動く。
「健太?」
「うん」
凛華は穏やかな顔のまま、言葉を置く。
「面白がって聞くのは無責任だよ。悠真くんがどれだけ困ってるか、分かってないんだから」
「面白がって……って」
悠真は反射で否定しそうになった。健太はそういうやつじゃない。たぶん。
でも、その“たぶん”が、今は薄い。
健太の声を思い出す。
心配しているような声。
でも、どこか興味も混じっていたような気がしてしまう。
――皆と同じ。
そんな風に思ってしまう自分が嫌だった。
凛華は悠真の揺れを見逃さない。
見逃さないまま、優しく指摘する。
「だって、悠真くんが疲れてるの、見れば分かるよ」
それは事実だ。
見れば分かる。だからこそ、見ている人間が多いほど、息ができない。
「なのに、聞いてくる」
凛華の声がほんの少しだけ冷える。
「ねえ。優しさって、本当はこういう時に使うものじゃない?」
悠真は答えられなかった。
健太を思い浮かべるたびに、小さな溝が生まれる。
ほんの小さな溝なのに、今の悠真には大きく見えた。
凛華は、その溝に水を流し込むように、静かに言った。
「ここでは、そんなの気にしなくていいよ」
“ここ”。
悠真の胸の奥が、微かに反応する。
たった二文字が、救いの名前みたいに響いてしまう。
⸻
凛華が立ち上がった。
悠真のすぐ横ではなく、机を一つ挟んだ隣へ移動する。近づきすぎない。けれど、距離は確実に縮まる。
凛華は悠真の方を向いたまま、言った。
「ねえ、嫌なら」
一拍置いて、
「明日からは無理に学校に来なくていいんだよ?」
悠真は顔を上げた。
「は?」
「だって、辛いんでしょ」
凛華は言葉を崩さない。冷静に、“合理的”に提案する。
「私が、放課後にノートを届けてあげる。
……あの頃みたいに、二人だけで勉強すればいいじゃない」
あの時。
小学生の頃。秘密基地の森へ行く前の、あの短い時間。
凛華が“二人だけ”を当たり前に口にすることに、悠真は言い返せない。否定したら、彼女が壊れる気がした。壊れたら、もっと面倒なことになる気がした。
凛華は悠真に触れない。触れない代わりに、指先だけを伸ばした。
乱れた前髪を、一筋だけ整える。
それだけ。
たったそれだけなのに、悠真の背中に冷たい汗が走る。
抱きしめられるより、逃げ場がない。
拒めない。拒む理由が立たない。
優しさの形をしているから。
「……俺、別に」
悠真は言いかけて、止まった。
別に、何だ。
別に辛くない、とは言えない。
別に学校に来たい、とも言えない。
凛華は、答えを待たない。
「大丈夫だよ」
優しい声。
「悠真くんが楽な方でいいの」
楽な方。
それはつまり、“凛華の方”だ。
⸻
窓の外が、赤くなっていた。
夕暮れが校舎の壁に反射して、教室の中の影を長く伸ばす。静寂が濃くなる時間帯だ。
凛華は窓の方を向いたまま、淡々と告げた。
「一度広まった噂は、もう消えないよ」
悠真の喉が鳴った。
「明日になっても、みんな君を『私と特別な関係の転校生』として見る」
言葉が、まっすぐ刺さる。
悠真は、今さら否定しても遅いと分かっていた。
自分が望んでいた“普通の生活”は、もうない。
それが、凛華の手によって壊れたと考えた瞬間、胸の奥が冷えた。
でも凛華は、何もしていない顔をしている。噂を広めたわけじゃない。守っただけ。救っただけ。
そういう顔をしている。
凛華は、窓の外の赤い光を見つめたまま、ほんの少しだけ笑った。
「……でも、私はそれでも構わないけどな」
悠真の背筋が硬直する。
凛華は振り返った。
「だって、本当のことだもんね?」
その言葉は、問いかけじゃない。
“確定”だ。
悠真は何も言えなかった。
否定すれば、また刺される。
肯定すれば、もう終わる。
どちらにも行けない場所に、悠真は立たされている。
凛華はその沈黙を“受け入れ”として受け取ったように、少しだけ表情を柔らかくした。
「そろそろ、戻ろっか」
いつもの明るい幼馴染の顔。
昨日までの“凛とした美女”の顔。
悠真は、扉の向こうの世界を思った。
視線。舌打ち。噂。
また刺される。
また削られる。
その恐怖が、体を重くする。
凛華の隣に立つと、なぜか少しだけ息がしやすくなる。
彼女が盾になるような錯覚がある。
――違う。
盾じゃない。
でも今の悠真には、それしか選べない気がした。
二人は適度な距離を保って、教室を出た。
凛華は一歩前を歩き、悠真はその半歩後ろをついていく。
近くもない。離れてもいない。
背後で、扉が閉まった。
その音が、自由な日常との別れみたいに響いた。
悠真は振り返らないまま、静かに歩き出した。
外の世界へ戻るためではなく、
この静けさに繋がる道を、忘れないために。




