表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あの日、泣き虫だった君は隣のクラスで「高嶺の花」と呼ばれている  作者: 風莉


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

19/35

15話

 扉を閉めた瞬間、世界の音が薄くなった。


 外の喧騒はまだ遠くにあるはずなのに、壁を一枚挟むだけで別の場所みたいになる。特別棟の空き教室は、学園祭の日ですら冷えていて、床に落ちた光が白い。


 悠真は椅子に深く腰を下ろした。


 肩に入っていた力が、遅れてほどける。

 肺の奥に残っていた熱い空気を、ようやく入れ替えられる気がした。


 ――ここなら、見られない。


 視線がない。囁きがない。舌打ちがない。

 ただ、静かだ。


 向かい側の席に、凛華が座っていた。

 近すぎない。遠すぎない。机を一つ挟んだ距離。


 彼女は椅子に背を預けず、背筋を伸ばしている。手は膝の上で重ねられていて、表情は柔らかいのに、目だけが悠真を離さない。


 悠真は、その視線を“優しさ”と呼べるのか分からなかった。


「落ち着いた……?」


 凛華が、穏やかな声で言った。


「外、相当ひどかったみたいだね」


 どこか突き放しているのに、同時に“自分だけが分かっている”という静かな確信が混じっている。


 悠真は返事をする前に、喉の奥を湿らせるように息を吐いた。


「……ひどいっていうか」


 言葉が詰まる。


 何がひどいのか、説明するだけでまた刺される気がする。

 それでも言わないと、ここにいる意味がなくなる。凛華は“聞くために”ここを用意したのだと、どこかで分かっていた。


「……見知らないやつにまで、睨まれた」


 出てきたのは、情けないほど短い告白だった。


「すれ違うたびに、なんか……」


 指先が勝手にこわばる。背中がまだ、針で刺された感覚を覚えている。


「……俺、ああいうの、無理なんだよ」


 視線。噂。勝手な物語。

 人が自分を“何か”に決めつけるのが、息苦しい。


 凛華は静かに頷いた。


「ひどいね」


 即答だった。迷いがない。


 その迷いのなさが、少し怖い。

 でも、同時に救われる。


 凛華は机の上に視線を落とし、淡々と続けた。


「みんな、勝手だよね」


 そして、すぐに付け足すように言う。


「……佐藤くんも」


 悠真の眉がわずかに動く。


「健太?」


「うん」


 凛華は穏やかな顔のまま、言葉を置く。


「面白がって聞くのは無責任だよ。悠真くんがどれだけ困ってるか、分かってないんだから」


「面白がって……って」


 悠真は反射で否定しそうになった。健太はそういうやつじゃない。たぶん。

 でも、その“たぶん”が、今は薄い。


 健太の声を思い出す。

 心配しているような声。

 でも、どこか興味も混じっていたような気がしてしまう。


 ――皆と同じ。


 そんな風に思ってしまう自分が嫌だった。


 凛華は悠真の揺れを見逃さない。

 見逃さないまま、優しく指摘する。


「だって、悠真くんが疲れてるの、見れば分かるよ」


 それは事実だ。

 見れば分かる。だからこそ、見ている人間が多いほど、息ができない。


「なのに、聞いてくる」


 凛華の声がほんの少しだけ冷える。


「ねえ。優しさって、本当はこういう時に使うものじゃない?」


 悠真は答えられなかった。


 健太を思い浮かべるたびに、小さな溝が生まれる。

 ほんの小さな溝なのに、今の悠真には大きく見えた。


 凛華は、その溝に水を流し込むように、静かに言った。


「ここでは、そんなの気にしなくていいよ」


 “ここ”。


 悠真の胸の奥が、微かに反応する。

 たった二文字が、救いの名前みたいに響いてしまう。



 凛華が立ち上がった。


 悠真のすぐ横ではなく、机を一つ挟んだ隣へ移動する。近づきすぎない。けれど、距離は確実に縮まる。


 凛華は悠真の方を向いたまま、言った。


「ねえ、嫌なら」


 一拍置いて、


「明日からは無理に学校に来なくていいんだよ?」


 悠真は顔を上げた。


「は?」


「だって、辛いんでしょ」


 凛華は言葉を崩さない。冷静に、“合理的”に提案する。


「私が、放課後にノートを届けてあげる。

 ……あの頃みたいに、二人だけで勉強すればいいじゃない」


 あの時。

 小学生の頃。秘密基地の森へ行く前の、あの短い時間。


 凛華が“二人だけ”を当たり前に口にすることに、悠真は言い返せない。否定したら、彼女が壊れる気がした。壊れたら、もっと面倒なことになる気がした。


 凛華は悠真に触れない。触れない代わりに、指先だけを伸ばした。


 乱れた前髪を、一筋だけ整える。


 それだけ。

 たったそれだけなのに、悠真の背中に冷たい汗が走る。


 抱きしめられるより、逃げ場がない。

 拒めない。拒む理由が立たない。


 優しさの形をしているから。


「……俺、別に」


 悠真は言いかけて、止まった。


 別に、何だ。

 別に辛くない、とは言えない。

 別に学校に来たい、とも言えない。


 凛華は、答えを待たない。


「大丈夫だよ」


 優しい声。


「悠真くんが楽な方でいいの」


 楽な方。

 それはつまり、“凛華の方”だ。



 窓の外が、赤くなっていた。


 夕暮れが校舎の壁に反射して、教室の中の影を長く伸ばす。静寂が濃くなる時間帯だ。


 凛華は窓の方を向いたまま、淡々と告げた。


「一度広まった噂は、もう消えないよ」


 悠真の喉が鳴った。


「明日になっても、みんな君を『私と特別な関係の転校生』として見る」


 言葉が、まっすぐ刺さる。


 悠真は、今さら否定しても遅いと分かっていた。

 自分が望んでいた“普通の生活”は、もうない。


 それが、凛華の手によって壊れたと考えた瞬間、胸の奥が冷えた。

 でも凛華は、何もしていない顔をしている。噂を広めたわけじゃない。守っただけ。救っただけ。


 そういう顔をしている。


 凛華は、窓の外の赤い光を見つめたまま、ほんの少しだけ笑った。


「……でも、私はそれでも構わないけどな」


 悠真の背筋が硬直する。


 凛華は振り返った。


「だって、本当のことだもんね?」


 その言葉は、問いかけじゃない。

 “確定”だ。


 悠真は何も言えなかった。


 否定すれば、また刺される。

 肯定すれば、もう終わる。


 どちらにも行けない場所に、悠真は立たされている。


 凛華はその沈黙を“受け入れ”として受け取ったように、少しだけ表情を柔らかくした。


「そろそろ、戻ろっか」


 いつもの明るい幼馴染の顔。

 昨日までの“凛とした美女”の顔。


 悠真は、扉の向こうの世界を思った。


 視線。舌打ち。噂。

 また刺される。

 また削られる。


 その恐怖が、体を重くする。


 凛華の隣に立つと、なぜか少しだけ息がしやすくなる。

 彼女が盾になるような錯覚がある。


 ――違う。


 盾じゃない。

 でも今の悠真には、それしか選べない気がした。


 二人は適度な距離を保って、教室を出た。


 凛華は一歩前を歩き、悠真はその半歩後ろをついていく。

 近くもない。離れてもいない。


 背後で、扉が閉まった。


 その音が、自由な日常との別れみたいに響いた。


 悠真は振り返らないまま、静かに歩き出した。

 外の世界へ戻るためではなく、

 この静けさに繋がる道を、忘れないために。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ