14.5話
朝の空気は、澄んでいた。
千白町の秋は、冷たいのに優しい。呼吸をすると肺の奥まで洗われるようで、凛華はその感覚が好きだった。今日は特に、胸の内側が軽い。
――だって、今日は“収穫”の日だから。
校門が見える少し手前で、凛華は歩く速度をほんのわずかに落とした。
周囲には、同じ二組の女子たちがいる。彼女たちはいつも通り、凛華を遠巻きに見ている。近づきたいのに近づけない、あの距離。
凛華はスマホを取り出した。
画面を点ける。
表示された名前を見ただけで、口元がほどけそうになるのを、凛華は意識して抑えた。
トーク画面には、休みの間に積み上がった短いやり取りが残っている。
約束でも、報告でもないのに、凛華にとっては全部が“繋がっている証拠”だった。
『起きた?』
『うん』
『ちゃんと食べてる?』
『食べた』
『よかった。無理しないで』
そして、少し前の――凛華が何度も見返してしまう二つ。
『今から家に行くね』
『待ってるね』
凛華はその文字を愛おしそうになぞり、喉の奥が甘くなるのを感じた。
――いけない。
すぐに口元を抑えるふりをする。少しだけはにかむ。嬉しさを隠しきれない少女の顔を、わざと鏡のような画面に映して確かめる。
(直接誰かに話す必要なんてない)
凛華は心の中で言った。
(ただ、幸せそうに微笑んで)
歩きながら、誰にも向けない独り言を、ほんの少しだけ漏らす。
「……昨日、大切な人と過ごしたから」
声は小さい。
でも“聞こえるように”小さい。
横を歩いていた女子の一人が、ぴくりと反応したのが分かった。
視線が刺さる。ざわつく気配が生まれる。
凛華は何事もない顔で、スマホを胸元に抱えたまま校門をくぐった。
(噂は、勝手に育つ)
それがこの学校のルールだ。
凛華が言葉で説明しなくても、世界は勝手に補完する。
“高嶺の花”の異変。
“誰かと過ごした”という断片。
そこに必要な最後のピースは、昨日からもう決まっている。
一組の転校生。
瀬戸悠真。
凛華は、口の端が上がりそうになるのを、ほんの少しだけ抑えた。
(育って、彼を追い詰めてくれる)
そうすれば、彼は逃げる。
逃げる先は、凛華のところしかない。
優しさと安全がある場所へ。
――自分の聖域へ。
⸻
二組の教室は、学園祭の熱でいつも以上に騒がしい。
男子たちが張り紙を貼り、呼び込みの練習をしている。甘い匂いと油の匂いが混じって、空気が重い。凛華は自分の席に座り、静かに本を開いた。
いつもと変わらないふり。
けれど、周囲は変わっていく。
「マジかよ……」
誰かの声がひそひそと落ちる。
「一組の転校生だろ?」
「冬月が? 家?」
殺気立つ気配が、波のように広がっていく。
机を叩く音が少し強くなる。視線の方向が一点に寄っていく。
凛華はページをめくった。
指先が、ほんのわずかに震えた。
怖いからじゃない。
背筋が震えるほど、満たされていくからだ。
(悠真くん、今頃困ってるかな)
凛華は心の中で囁く。
(みんなに睨まれて、居場所がなくなってるかな)
喧騒の中で孤立する彼。
逃げようとしても逃げられない彼。
誰にも頼れず、ただ耐えるしかない彼。
凛華はその姿を想像しただけで、胸の奥が熱くなる。
(……ごめんね)
ごめんね、という言葉には、いつもと同じように“優しさ”の形を持たせる。
でもその奥にある本音は、別だ。
(でも、そうじゃないと)
(あなたは私のところへ来てくれないでしょう?)
凛華は本の文字を追いながら、微笑みを殺した。
周囲の男子が怒っている。苛立っている。恨んでいる。
それでいい。
それがいい。
だって彼らの怒りは、悠真を孤立させる。
孤立した彼は、温かい場所を探す。
温かい場所に、凛華がいる。
――完璧だ。
⸻
ふと、凛華は別の名前を思い出した。
佐藤くん。
一組で悠真に絡んでくる、やけに距離の近い男子。悠真が“健太”と呼んでいた気がする。彼は悠真の壁を叩く。良かれと思って踏み込む。救うつもりで引っ張り出す。
(無自覚)
凛華はその言葉に、少しだけ笑った。
“友情”という名目は便利だ。
善意という刃は、本人が一番痛みに鈍い。
彼はきっと、悠真に真相を聞くだろう。
問いただすだろう。
励ますつもりで、余計に疲れさせるだろう。
悠真は疲れる。
疲れて、笑うのが難しくなる。
教室にいるのが苦しくなる。
結果、彼はもっと孤立する。
凛華は、誰にも知られないように、ほんの少しだけ息を吐いた。
(ありがとう、佐藤くん)
面識なんていらない。
言葉を交わす必要もない。
凛華にとって彼は、悠真をこちらへ追い込むための“環境”の一部だった。
便利な駒――そう呼ぶと冷たいから、凛華は別の言葉で包み直す。
(味方のフリをした、追い込み役)
それが一番、効く。
⸻
特別棟は、学園祭の日でも静かだった。
渡り廊下を渡ると、喧騒が壁の向こうに押し込められる。足音が響く。空気が冷える。埃の匂いがする。
凛華は三階の空き教室へ入り、窓際に立った。
逆光の中で、自分の姿が薄くガラスに映る。
いつもの制服。いつもの髪。
特別なことは何もしていない。
でも、瞳だけが違う。
外の生徒たちが決して見ない瞳。
静かで、深くて、暗い熱が渦巻いている瞳。
凛華は指で前髪を整え、鏡代わりの窓に向かって、笑顔を作った。
優しき幼馴染の笑顔。
救いの笑顔。
安心の笑顔。
そして、その裏側にあるものを、誰にも見せない。
廊下から足音が聞こえた。
慌ただしい。
でも迷っている足音。
――悠真だ。
凛華は笑みを深くしそうになるのを抑え、胸の奥で囁いた。
(おいで、悠真くん)
足音が近づく。
扉の前で止まる。
(……もう、そこしか逃げ場はないよ)
そして。
扉が開いた。
⸻
肩で息をする悠真が、そこに立っていた。
制服が少し乱れている。頬がわずかに赤い。目が、疲れている。
外の嫉妬に晒されて、針で刺されて、削られて――逃げてきた顔。
凛華は逆光の中で、ただ立っていた。
制服姿のまま。
なのに、その“特別感”だけが異様に濃い。
悠真が一歩踏み出しかけて止まる。
金縛りに遭ったみたいに、身体が固まる。
凛華は、ゆっくりと歩み寄った。
足音は小さいのに、空間が支配されていく。
悠真が後ずさろうとしても、退路はない。
「……やっと、来てくれた」
声は甘く、優しい。
凛華は心の中で、さらに囁く。
(お疲れ様、悠真くん)
(みんなに嫌われちゃったね)
(……でも安心して)
彼の前で、凛華は微笑んだ。
勝利を確信した魔女のように――ではなく、救いを差し出す聖女のように。
(この世界で、私だけはあなたの味方だから)
凛華は悠真の手を取った。
いつかと同じ、優しい温度で包み込む。
悠真の指が震えている。
その震えが、凛華の幸福を完成させる。
彼は今、これを“救い”だと思っている。
救われたと思って、手を預ける。
けれどこの手は、鎖だ。
凛華はその鎖を、柔らかく、丁寧に巻きつけていく。
気づかせない。
気づかれない。
ただ、甘い聖域の中で、彼を深く引きずり込む。
扉の外の喧騒は遠い。
ここは無音の世界。
凛華だけが、悠真だけがいる世界。
凛華は微笑んだまま、心の中で静かに言った。
(大丈夫)
(ここから先は、私が全部、守ってあげる)
――逃げられないように。




