14話
学園祭当日の朝は、いつもと同じ教室なのに、別の場所みたいだった。
机は寄せられ、ポスターが貼られ、段ボールの匂いと油の匂いが混じる。廊下からは他クラスの笑い声や呼び込みの声が流れ込み、教室の入口はずっと開け放たれている。人の出入りが多すぎて、自分のクラスという感覚が薄い。
悠真にとっては、最悪の条件だった。
普段なら、壁際にいれば視線は減る。
今日は違う。人が多い分、視線も増える。しかもその視線は、“知らない顔”のものばかりだ。
ふと、肩を叩かれた。
「おい、悠真」
佐藤健太だった。いつもの調子の軽さがなく、珍しく目が真面目だった。
「……なに」
悠真が返すと、健太は声を落とし、耳元に囁いた。
「マジで気をつけろよ」
その一言で、悠真の背中が冷える。
「さっきから二組の男子連中が、お前のこと探してる。
睨み殺しそうな勢いで」
「……やっぱり、そうか」
予感はあった。昨日の“尋問”の時点で、もう終わっている。噂は教室の外へ出た。出た噂は、廊下を走る。
健太は、苦い顔で続けた。
「『あの転校生、冬月さんの家に行ったらしい』って。
もう全学年に回ってるぞ」
悠真は返事ができなかった。
健太が、半分呆れたみたいに笑う。
「お前、今この学校で一番目立ってる。
で、一番恨まれてる」
言い切られて、笑えなかった。
ただ目立ちたくないだけだった。
ただ、静かに過ごしたかっただけだった。
なのに今、自分は“冬月凛華の特別”という札を首から下げられて歩いている。
「……最悪だな」
悠真が低く呟くと、健太は肩を竦めた。
「でも、マジで最悪なのはこれからだぞ。
学園祭ってさ、普段会わねえ連中がうろつくから。噂好きが寄ってくる」
言いながら健太が目線で示した。
教室の入口の方。廊下の向こう。
遠巻きにこちらを見ている男子がいる。二人、三人。視線が合うと、わざと目を逸らさない。睨みつけてくる。
悠真は背筋に針を刺されるような感覚を覚えた。
“憧れの高嶺の花を奪った転校生”。
そのレッテルは、悠真が最も嫌う種類の注目だ。
善意でも、興味でもない。嫉妬と憎悪の混じった視線。
「……俺、ちょっと廊下行ってくる」
「おい、悠真――」
健太が止めようとしたけれど、悠真はもう足を動かしていた。
教室を出た瞬間、空気の温度が変わる。
呼び込みの声。笑い声。紙皿の匂い。
祭りの匂いが濃い。人が多い。視線が多い。
すれ違う見知らぬ男子が、露骨に舌打ちした。
「チッ……」
聞こえる距離で。
悠真は反射的に肩を竦め、足を速めた。
別の角を曲がった先でも、同じだった。
視線。囁き。小さな笑い。
「……あいつかよ」
「マジで?」
「冬月の家行ったって……」
耳に入ってくる言葉が、鋭利すぎる。
自分の中の“普通でいたい”が、音を立てて壊れていく。
どこへ行っても追いかけてくる。
廊下を変えても、階段を変えても、“冬月凛華の特別”という札が背中に貼りついている。
息が浅くなる。
逃げたい。
逃げ場がない。
そのとき、ポケットの中でスマホが震えた。
取り出す手が少し震える。
画面に表示された名前だけで、現実がさらに濃くなる。
凛華。
メッセージは短かった。
『みんな、怖いよね。
……特別棟の3階に来て。あそこなら、私以外誰もいないから』
悠真は立ち尽くした。
“怖いよね”。
まるで、全部見ていたみたいな言葉。
そして、逃げ道を用意しているみたいな言葉。
その優しさに、救われたい気持ちが湧く。
同時に、救われたくない気持ちも湧く。
――凛華の“逃げ場”は、凛華の領域だ。
分かっているのに。
悠真は視線の針に刺され続けるより、静けさを選んでしまった。
⸻
特別棟へ向かう渡り廊下を渡ると、空気が変わった。
喧騒が、一歩ごとに遠ざかる。
人の密度が薄くなる。
祭囃子が壁の向こうへ押し込められていく。
特別棟の階段は、古くて冷たい。
足音がやけに響く。
悠真は二段飛ばしで上がった。
上がるほど、息が整っていく。視線の痛みが薄れていく。
――ここなら。
そう思った瞬間、背筋がぞくりとした。
“ここなら”という安心が、誰の用意した安心なのかを考えてしまう。
三階。
廊下は無音に近い。窓から差す光が白く、埃が浮いている。
指定された空き教室の前に立ち、悠真は一度だけ呼吸を整えた。
ノックするべきか迷って、結局しないまま扉に手をかける。
――ガラリ。
引き戸が開く音だけが、やけに大きく響いた。
教室は静まり返っていた。
外の地獄みたいな嫉妬が、嘘のように遠い。
ここだけ時間が止まっているみたいだ。
窓際に、人影があった。
逆光。
制服姿の凛華が、立っている。
特別な装いではない。いつもの制服。いつもの髪。
それなのに――空気が異質だった。
立ち姿だけで、教室という枠が小さく見える。
こちらを見つめる瞳が、空間を支配している。
悠真は息を呑んだ。
綺麗だと思った。
そして同時に、直感する。
外の嫉妬よりも、
目の前の静寂の方が、ずっと深い。
逃げ場のない場所。
凛華はゆっくりと歩み寄ってきた。
足音は小さいのに、距離が詰まるたびに圧が増す。
「大変だったね、悠真くん」
声は優しい。
優しすぎる。
「……でも大丈夫」
凛華は、悠真の前で止まった。
「ここには、あなたを睨む人も、邪魔する人も誰も来ない」
そして、微笑む。
「私がそうしておいたから」
ぞくり、とした。
その言葉は守りの宣言であり、同時に支配の宣言でもある。
凛華は悠真の震える手を取り、いつかのように優しく包み込んだ。
指先が温かい。
温かいのに、逃げ道が消える。
悠真の喉が、乾いた。
この手の温度が、救いになるのか。
それとも――檻の鍵になるのか。
悠真はまだ、答えを出せないまま、凛華の手の中で息をした。




