13話
朝の教室は、いつもより騒がしかった。
机が動かされ、段ボールが積まれ、ガムテープの音が空気を切る。誰かが笑い、誰かが段取りを叫ぶ。学園祭直前の熱に、教室全体が浮き足立っていた。
瀬戸悠真の席は、いつの間にか“作業台”になっている。
「悪い瀬戸! ちょっとここ借りるわ!」
謝る声は軽く、断る余地はない。悠真は「どうぞ」とだけ返して、壁際へ退いた。壁際が好きだった。背中に壁があると、視線の数が減る気がする。
スマホを眺めるふりをする。画面には、未読のトークが並んでいる。
冬月凛華。
昨夜の「待ってるからね」が、まだ喉の奥に残っている。だからこそ、今日は見ない。今日は返さない。見てしまえば、返さなければならなくなる。返せば、約束になる。
目立たず、このまま学園祭が終わればいい。
それが、悠真の願いだった。
騒がしい教室の中心から少し離れた場所で、悠真は静かに息を吐いた。スマホの画面を指で滑らせ、凛華のトークが視界に入らないように位置をずらす。
――立ち消えるかもしれない。
淡い期待に縋る。凛華の熱が、いつか勝手に冷めるかもしれない。自分がうまく距離を取れば、自然に元の“他人”に戻れるかもしれない。
そうやって、現実を薄めていく。
そのときだった。
教室のざわめきが、ふっと途切れた。
誰かが息を呑む音。
椅子の脚が止まる音。
視線が一斉に、入口へ向かう気配。
悠真は嫌な予感に、反射で顔を上げた。
教室の入口に立っていたのは、凛華だった。
隣のクラスの制服姿。背筋はまっすぐで、目線はぶれない。そこに立っているだけで、空気が整列する。騒がしいはずの一組が、なぜか“静かに振る舞うべき場”に変わってしまう。
「……なんで冬月が一組に?」
小声が走る。男子の声、女子の声。噂は小さく、しかし確実に広がっていく。
凛華は迷わない。扉の前で立ち止まらず、一直線に悠真の方へ歩いてくる。まるで、ここが自分の教室であるかのように。
悠真の心臓が、嫌な跳ね方をした。
――やめてくれ。
そんな願いは、誰にも届かない。
凛華は悠真の目の前で止まった。距離が近い。周囲の視線が、刺すように集まってくる。
「おはよう」
普段と変わらない、落ち着いた声。
けれど次の一言が、刃物みたいに鋭かった。
「……LINE、見てくれなかったんだね?」
静寂の中で、その言葉はやけに響く。
悠真の手のひらに汗が滲んだ。スマホを握っていないのに、握っているみたいに指がこわばる。
ここで“凛華”と話すのは危険だ。
ここで“特別”を見せたら、終わる。
悠真は、つい防衛本能にすがった。
「あ、ああ……おはよう、冬月さん」
言った瞬間、空気が冷えた。
凛華の笑みが、すっと消える。
ただの無表情ではない。温度だけが抜け落ちた、透明な顔。
周囲の生徒たちが、息を呑むのが分かった。噂の“高嶺の花”の圧に、教室がさらに静まっていく。
凛華の声が落ちる。
「……今、なんて呼んだの?」
「え?」
悠真は、咄嗟に笑ってごまかそうとした。軽く、普通に、ただのクラスメイトとして。
「いや、学校だし、みんな見てるから……その、冬月さんで――」
言い訳が終わる前に、凛華の目が揺れた。
揺れたのは悲しみではない。
もっと重くて、もっと暗い感情。
「昨日は」
凛華の声は静かだった。静かすぎて、余計に怖い。
「昨日はあんなに仲良くお昼食べたのに」
ざわ、と小さく空気が波打つ。
誰かが「え?」と口の中で呟く音。
凛華は続ける。
「私の家で、あんなに深いお話もしたのに」
悠真の胃がきゅっと縮んだ。
やめろ。
それ以上は言うな。
でも凛華は止まらない。止まれない。
「……外では他人みたいに呼ぶんだ?」
凛華は首を傾げる。可憐な仕草のはずなのに、そこにあるのは責める熱だった。
「悠真くんにとって、私はその程度の存在?」
逃げ場がない。
教室の全員が聞いている。
全員が見ている。
そして凛華は、その状況を理解していないのではなく――理解した上で、踏みつけている。
悠真は喉が乾いた。どう答えても地雷だ。否定すれば彼女を傷つける。肯定すれば周囲が騒ぐ。沈黙すれば“拒絶”になる。
凛華の瞳の奥に、暗い熱が宿っている。
それは「寂しい」ではなく「裏切られた」という熱だ。
悠真は限界だった。視線が痛い。空気が痛い。凛華の感情が痛い。
「……ごめん」
絞り出すように言って、悠真は一歩前に出た。
「凛華。……場所を変えよう」
名前を口にした瞬間、凛華の表情が変わった。
氷が溶けるみたいに、満足げな笑みが戻る。
たった一言で、世界が許されたような顔。
「うん」
嬉しそうに頷くと、凛華は迷いなく悠真の腕に自分の腕を絡めた。軽い接触のはずなのに、逃げられない固定。
「ちょ……!」
悠真が慌てても遅い。
凛華はそれを“当然の距離”として扱う。
教室の視線が一斉に突き刺さる中、二人は廊下へ出た。
背後で、誰かが呆然と息を吐いた。
誰かが「マジかよ……」と小さく漏らした。
廊下に出た途端、凛華は少しだけ声を落とし、悠真の耳元に囁く。
「最初からそう呼んでくれればいいのに」
甘い声。
しかし甘さの底に、“正解以外は許さない”硬さがある。
「……学園祭の当日、二人で回る約束。忘れてないよね?」
「約束なんて――」
悠真が反論しようとした瞬間、凛華が先に言った。
「大丈夫」
根拠のない安心ではない。
準備された“段取り”の安心。
「他クラスの出し物のシフトも、人混みに紛れやすいルートも、全部調べておいたから」
悠真は言葉を失った。
そんなもの、調べる必要はない。調べる前に、本人の意思を聞け。
「悠真くんは」
凛華はにこりと微笑む。
「私に手を引かれていればいいの」
胸が、冷える。
それは提案じゃない。
役割の指定だ。
「目立つから、やめよう」
悠真は必死に言った。
「俺は普通に――」
「普通?」
凛華の声が、わずかに低くなった。
「悠真くんが“普通”でいたいなら、私が守るよ」
守る、という言葉が、檻の鍵みたいに聞こえた。
悠真はもう、それ以上押し返せなかった。凛華の腕は絡まったまま、離す気配がない。彼女の目が、逃げ道を探す悠真を静かに捕まえている。
「……分かった」
言わされた、という感覚だけが残る。
凛華は満足そうに頷き、絡めた腕をほどいた。ほどいたのに、悠真の手首を軽く掴む。逃げられない程度に、しかし拒絶できない程度に。
「じゃあ、また後でね」
そう言って、凛華は軽やかに去っていった。
廊下の空気が戻る。
けれど悠真の息は戻らない。
教室に戻る足取りが重い。ドアに手をかけた瞬間、背中がぞくりとした。中の空気が、さっきまでとは別物になっている。
扉を開けると――
「おい瀬戸!」
待ってましたと言わんばかりに声が飛ぶ。
「お前、冬月さんとどういう関係だよ!」
視線が一斉に刺さる。
好奇心と嫉妬と、面倒事を嗅ぎつけた匂い。
「昨日の深い話って何!? 家って何!?」
「やば、転校生、やるじゃん」
「冬月って誰にもあんな感じじゃねえだろ」
質問が矢のように飛んでくる。冗談めかしている声もある。でもその下に、確実な“格付け”が混じっている。
悠真は思った。
平穏を願ったはずだった。
目立たずに、静かに終わらせるはずだった。
なのに。
凛華という「特別」が、一度教室に入っただけで、修復不可能なひびが入る。
元の“透明な転校生”には戻れない。
悠真は唇を開いた。何か言わなければならない。ここで黙れば、勝手に物語を作られる。けれど――
正解が分からない。
凛華の望む正解と、学校が要求する正解と、自分が守りたい正解が、噛み合わない。
教室の喧騒が戻る。
ただし今度は、祭りの喧騒ではない。
悠真を中心にした喧騒だ。
彼は、心の中で小さく思った。
――もう、逃げ場がない。




