12.5話
冬月家の朝は、静まり返っていた。
両親はもう家を出ている。
廊下に足音はなく、台所から水の音も聞こえない。広い家が、空っぽの器みたいに音を吸い込んでいる。
それなのに、凛華の胸の中だけが騒がしかった。
心臓の鼓動が、いつもより速い。
眠気はない。むしろ、目が冴えすぎている。
テーブルの上に置いたスマホが、短く震えた。
画面を点ける。
表示された名前を見ただけで、口元がほどけそうになるのを、凛華は意識して抑えた。
『今から家に向かう』
短い文。
それだけで十分だった。
凛華は、指先でその文字をそっとなぞった。
手のひらの中に、彼がいるみたいに。
――来る。
――自分の家に。
――自分の用意した場所に。
頭の中で何度も同じ言葉を繰り返すたびに、胸の底から熱が湧いてくる。嬉しい。嬉しいのに、嬉しさをそのまま表に出すのは“違う”。
今日は、“迎え入れる日”だ。
彼を、優しく包んで、安心させる日。
凛華はスマホを置き、鏡の前に立った。
目元を少し和らげて、唇の力を抜く。
大丈夫。
ちゃんとできる。
鏡の中の自分が、少しだけ“寂しがりやの少女”に寄りすぎていた気がして、凛華は瞬きして整え直す。
――優しき幼馴染。
その顔を作る。
彼は、壊れている。
壊れているから、扱いを間違えたら逃げる。
逃げたら、もう二度と戻らない。
凛華は、深く息を吸って、吐いた。
それから台所へ向かう。
包丁を取り出す。まな板を置く。火を点ける。
出汁の香りが立ち上がる。
家の静けさの中で、音が戻ってくる。
料理をする音。生きている音。
凛華はその音を好きだと思った。
なぜなら、彼が来るから。
彼のために鳴る音だから。
⸻
昼食の食卓は、いつもより丁寧に整っていた。
皿の向き。箸の位置。湯気の立ち方。
全部が、彼を迎えるための舞台だ。
玄関が鳴って、凛華は笑顔を作り、ドアを開ける。
「おはよう、悠真くん」
悠真の顔は、少し硬い。
その硬さが、凛華の胸をくすぐった。
警戒している。
怖がっている。
でも来た。
来た、という事実が、凛華の心を満たす。
食卓で向かい合って座ると、悠真は少しだけ落ち着きを取り戻したように見えた。湯気が出ている食事は、それだけで人を弱くする。凛華はそれを知っている。
箸を動かす悠真の手が、ほんの少しだけ震える瞬間があった。
凛華は見逃さなかった。
見逃したくなかった。
彼は、救いを求めているように食べている。
――そう思うだけで、背筋がぞくりとした。
胃袋が空っぽな人は、言葉より先に温度に屈する。
空腹は、尊厳を削る。
削れた部分に、誰かの優しさが入り込む。
凛華は、落ち着いた顔のまま、内側で静かに笑った。
彼の食生活が荒れていただろうことは想像できる。いや、想像なんて必要ない。彼の家の冷蔵庫の中身を見たとき、凛華は確信した。
空っぽだった。
あの家は、空っぽだ。
だから、埋める。
彼の空っぽを、自分の味で満たす。
自分の匂いで満たす。
自分の“正解”で満たす。
悠真が「美味しい」と言った瞬間、凛華の胸の中で何かが弾けた。
表情は崩さない。
ただ、笑う。
「よかった」
優しい幼馴染の声で。
それだけで、悠真の肩の力が少し抜けた。
その変化が、たまらなく愛おしい。
⸻
食後のリビング。
午後の光がカーテン越しに差し込み、床に柔らかな四角を作っている。
悠真は、カップを持つ指に力が入っていた。
痛いほど分かりやすい。
凛華は、タイミングを見て言った。
優しく、けれど逃げられない温度で。
「あっちで、何があったの?」
悠真の目が揺れる。
言いたくない。言えば壊れる。
そう思っている目。
でも胃袋は掴んだ。
この家の温かさで、毒気も抜けた。
今の彼は、抵抗が弱い。
彼は少し沈黙して、それから言った。
「……母さんの不倫で、家がめちゃくちゃになった」
言葉が落ちる。
重い真実が、静かな部屋に落ちる。
「それで……逃げるみたいに戻ってきた」
悠真の声は小さかった。
情けなさを隠すみたいに、視線が下がっていく。
――震えている。
笑われると思っている。
軽蔑されると思っている。
可哀想だと思った。
そして同時に――
凛華の胸の奥から、噴き出すような感謝と歓喜が湧いた。
表情は変えない。
変えられるはずがないほど、内側が熱いのに。
(……ああ、ありがとうございます)
誰に、とは言わない。
言う必要もない。
(お母さん。あなたが不実で、浅ましくて、彼を捨ててくれたおかげで)
凛華は、ゆっくりと呼吸を整えた。
笑いが漏れそうになるのを喉で殺す。
(悠真くんは、私の元へ帰ってこれた)
空いた席。
そこに座るのは、当然だ。
凛華は立ち上がり、悠真の背中に手を置いた。
優しく撫でる。慰める。包む。
「……辛かったね」
声の震えはない。
完璧な優しさ。
悠真が少しだけ救われた顔をする。
その顔が、凛華の幸福をさらに増やす。
救うのは、自分だ。
救った人から、彼は離れられない。
⸻
夕方。玄関。
帰り支度をする悠真を見送る体勢を取りながら、凛華は本題を切り出した。
「ねえ、明後日の学園祭だけど」
悠真の動きが止まる。
予想通り。
「二人で、他のクラスの出し物を見に行かない?
私のクラスも、悠真くんのクラスも関係なく」
悠真は動揺して、視線を泳がせた。
目立つ。噂になる。面倒が増える。
彼の理性がそう叫んでいるのが分かる。
「……いや、それは。まだ、どうなるか分かんないし。クラスのこともあるし……」
曖昧な拒絶。
逃げるための言葉。
そして、最後に。
「……とりあえず、また連絡するよ」
彼はそのまま、玄関を出ていく。
普通なら、傷つく場面だろう。
期待を拒まれた場面だろう。
けれど凛華の心は、凪のように静かだった。
なぜなら、拒絶ではないから。
曖昧さは、まだ繋がっている証拠だ。
切られたわけじゃない。
凛華は、穏やかな声で言った。
「待ってるからね」
背中に向けたその声は、願いではなく、予約に近かった。
⸻
ドアが閉まり、家の中が無人になる。
凛華はゆっくりとリビングへ戻り、悠真が座っていた椅子に腰を下ろした。
背もたれに身を預ける。
まだ残っている、微かな体温。
空気に残る匂い。
洗剤でも出汁でもない、彼の匂い。
凛華は目を閉じ、胸の奥にその感覚を落とし込む。
今日、彼は言った。
目立ちたくない。普通に過ごしたい。
つまり――一人でいたい。
凛華はその言葉を、別の意味に変換していた。
一人でいたいなら、孤立する。
孤立すれば、頼れる場所は減る。
頼れる場所が減れば、“ここ”の価値が上がる。
冬月家の温かさ。
凛華の味。
凛華の手。
彼が望めば望むほど、自然にこちらへ寄ってくる。
そんな幸運があるだろうか。
凛華は、目を開けて微笑んだ。
この家は、檻だ。
温かくて、優しくて、逃げ道が分からなくなる檻。
そして、鍵を持っているのは――自分だけだ。




