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あの日、泣き虫だった君は隣のクラスで「高嶺の花」と呼ばれている  作者: 風莉


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12話

 秋休み最終日の朝は、妙に白かった。

 カーテンの隙間から入る光が、部屋の埃まで浮かび上がらせる。


 悠真はベッドに腰を下ろしたまま、スマホを握っていた。

 昨日の夜、凛華が「明日」と言った時点で、もう予定は決まっていたようなものだ。けれど、決まっているからこそ――自分で決めた“体”を作りたくなる。


 画面を開き、短い文を打つ。


『今から家に向かう』


 送信。


 ほとんど間を置かずに、既読がついた。


 そしてすぐに返ってくる。


『待ってるね』


 短い。

 返事というより、予定確認の完了通知みたいだ。


 悠真は息を吐き、立ち上がった。髪を整えるほどの気力はない。顔を洗って、上着を羽織って、玄関へ向かう。


 靴を履く背中に、父の声が飛んできた。


「お、凛花ちゃんの家か。しっかり楽しんでこいよ」


 呑気すぎる。


「……別に、そういうんじゃないから」


 誰に言い訳しているのか分からないまま、悠真はドアを開けた。


 外気が冷たい。

 町の空気が肺に入って、頭が少しだけ冴える。


 歩きながら、スマホをポケットに戻す。

 その動作だけで、胸の奥の緊張が少し増した気がした。



 冬月家の玄関は、前に来た時よりも明るく感じた。

 呼び鈴を押す前から、家の中に人の気配がある。


 チャイムを鳴らすと、ほとんど待たずに鍵の音がして、ドアが開いた。


「おはよう、悠真くん」


 凛華が立っている。

 制服じゃない。淡い色の部屋着にエプロンを重ねていて、髪はきっちり整えられているのに、どこか“家の顔”だった。


「……おはよう」


 悠真が答えると、凛華は一歩引いて道を作る。


「入って」


 それも、拒否を想定していない言い方。


 玄関を上がった瞬間、生活の匂いがした。

 洗剤の匂い。

 陽の当たる布の匂い。

 そして――出汁の匂い。


 胃が、勝手に反応する。


 母がいなくなってから、自分の食事は“満たす”ものじゃなく、“埋める”ものになっていた。空腹を埋める。時間を埋める。味気ない作業。


 なのに、ここは違う。


 リビングへ通されると、テーブルの上に料理が並んでいた。

 湯気が立っている。色がある。皿がきれいだ。


 ただそれだけで胸が詰まる。


 凛華が椅子を引いた。


「座って」


 悠真は言われるまま座った。

 自分の家じゃないのに、居場所を用意されるのは、なぜか弱くなる。


「いただきます」


 凛華が言い、悠真も小さく同じ言葉を返す。


 箸を動かす。

 一口食べる。


 ――あたたかい。


 温度が、味より先に胸に落ちる。

 湯気のある食事は、理屈抜きに人の心をほどく。抵抗する暇もなく、毒気が抜けていく。


「……美味しい」


 悠真が絞り出すと、凛華は微笑んだ。


 優しい。

 慈愛に満ちている。


 けれど、その目は少しだけ――観察する目でもあった。

 食べる速度。表情。どの料理に箸が伸びるか。細部を拾っている。


 悠真はそれに気づきながら、気づかないふりをした。

 この温かさを失いたくないと思ってしまう自分が、少し怖かった。



 食後、凛華がお茶を淹れてくれた。

 湯気がまた上がる。匂いが心を落ち着かせる。


 穏やかな空気――のはずだった。


 凛華が、カップを置いたあと、少しだけ姿勢を正した。


「ねえ」


 呼びかけは柔らかいのに、逃げ道を消すみたいな調子。


「あっちで、何があったの?」


 悠真の指が、カップの縁で止まった。


 この話題を避けてきた。

 避け続ければいいと思っていた。


 でも今の自分は、腹が満たされて、温かい家に包まれて、抵抗力が落ちている。

 しかも凛華は“優しい顔”をしている。


 断る理由が、見つからない。


「……別に」


 反射でそう言いかけて、悠真は口を閉じた。


 凛華は何も言わない。

 ただ、待っている。


 その沈黙が、責めるより怖い。


 悠真は視線を落とし、ようやく吐き出した。


「……母さんの不倫で、家がめちゃくちゃになった」


 言葉が固い。

 自分の出来事なのに、他人事みたいにしか言えない。


「それで……逃げるみたいに戻ってきた」


 最後の部分は、声が小さくなった。

 言った瞬間、胸の奥がひりつく。


 軽蔑されるかもしれない。

 同情されるのも嫌だ。


 悠真は顔を上げられなかった。


 けれど凛華は、カップを置いて、静かに近づいた。

 そして、悠真の背中にそっと手を置く。


 やわらかい手。


「……辛かったね」


 その声は本当に優しい。

 優しいのに、悠真はなぜか背筋がぞくりとした。


 凛華の中で何が動いたのか、悠真には分からない。

 ただ――彼女の手の温度が少し上がった気がした。


 凛華の表情は、哀れみでも怒りでもない。

 ただ、静かに満ちていくような顔。


 その胸の奥で、何が囁かれたのか。


 悠真は知らない。


 知らないまま、背中を撫でられて、少しだけ救われたような気になってしまう。



 夕方、帰り支度をする時間になった。


 玄関で靴を履きながら、悠真は何度も言葉を選び損ねた。

 礼は言うべきだ。でも、踏み込みすぎた礼は言いたくない。


 凛華は、玄関先まで見送りに出てきた。

 その距離が近い。近すぎる。


「ねえ」


 凛華が、本題を切り出す。


「明後日の学園祭だけど……」


 悠真の肩がわずかに硬くなる。


「二人で、他のクラスの出し物を見に行かない?

 私のクラスも、悠真くんのクラスも関係なく」


 その提案だけで、悠真は光景を想像してしまった。


 凛華と並んで歩く。

 視線が集まる。

 噂が生まれる。

 面倒が増える。


 悠真は言葉を詰まらせた。


「……いや、それは。まだ、どうなるか分かんないし。クラスのこともあるし……」


 言い訳が、自分でも情けないほど曖昧だ。


 凛華は首をかしげた。


「でも」


 熱のこもった瞳。


「一人でいるより、いいでしょ?」


 その一言が、優しさの形をしているのに――

 断ったら罪になるみたいに聞こえる。


 悠真は、その瞳を直視できなかった。


「……とりあえず、また連絡するよ」


 逃げるように言い、玄関を出る。


 背後から、凛華の声が追いかけてきた。


「待ってるからね」


 甘い声。

 けれど、約束を取り付ける声。


 悠真は振り返らずに歩き出した。

 冬月家の温かさに救われた実感は確かにある。胃も心も、少しだけ満たされた。


 それでも同時に、底の見えない何かが足首に絡みついているような不安が消えなかった。


 温かいはずなのに、息が浅い。


 悠真は家路を急いだ。

 まるで、振り返ったら引き戻されるとでも思うみたいに。

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