11話
買い出しの袋をキッチンに置いた途端、父は満足そうに頷いた。
「よし。じゃあ、あとは任せたよ」
「え?」
悠真が聞き返すより早く、父はエプロンも着けずに踵を返した。
「久しぶりだろ、こういうの。
俺は部屋でちょっと横になってくる」
逃げるように、というよりは――本当に安心しきった足取りだった。
凛華がいれば大丈夫だ、と疑いもしない背中。
自室のドアが閉まる音がして、家の中に残ったのは二人だけになる。
「……」
悠真は立ち尽くしたまま、どうしていいか分からなかった。
凛華は何も言わず、手早く食材を並べ始める。袋から野菜を出し、肉を冷蔵庫に入れ、まな板を取り出す。その動きに一切の迷いがない。
包丁を手に取ったとき、凛華が振り返った。
「悠真くん、そこ座ってて」
「いや、手伝うよ」
「大丈夫」
にこり、と微笑む。
「悠真くんは、待ってて」
それはお願いの形をしていたけれど、拒否を想定していない言い方だった。
悠真は結局、椅子に腰を下ろした。
トン、トン、と包丁の音が響き始める。
それだけで、胸の奥がざわついた。
母がいなくなってから、この台所はずっと静かだった。
必要最低限の電子音と、水を流す音だけ。
誰かが「ここで生活している」という気配は、薄れていた。
なのに今は、違う。
出汁の匂いが立ち上り、火を使う音がする。
人の手で、何かが“整えられていく”感覚。
懐かしくて、少し怖い。
凛華は一切こちらを見ない。
けれど背中は、妙に近い。
まるで、この家の台所が、最初から彼女の居場所だったみたいに。
⸻
食卓に並んだ料理を見て、悠真は言葉を失った。
焼き魚。
具沢山の味噌汁。
野菜の小鉢。
どれも、さっきスーパーで聞かれた“答え”ばかりだ。
「……」
「どう?」
凛華が、少しだけ緊張した声で聞く。
悠真は箸を取り、一口食べた。
――驚くほど、ちょうどいい。
味付けも、量も、匂いも。
今の自分に、ぴったり嵌まる。
「……美味しい」
正直な感想だった。
その瞬間、凛華の表情がほどけた。
今日一番の、何の混じり気もない笑顔。
綺麗で、無防備で、ひどく純粋な顔。
「よかった」
その一言に、胸の奥がきゅっと締まる。
――知っている。
凛華は、自分を“知っている”。
いや、知ろうとしている。
それが、味として突きつけられる。
食べ進めるたびに、彼女の関心の深さが分かってしまう。
好意という言葉では、少し足りない深さ。
食事の途中、凛華がふと思い出したように言った。
「そういえば、学園祭」
箸が、わずかに止まる。
「準備、どうだった?」
悠真は正直に答えた。
「どうもこうもないよ。
転校したばっかだし、もう準備は終わってる。
当日は座ってるだけ。何もしないのが一番無難なんだ」
言い終えた瞬間、凛華の瞳が、ほんの一瞬だけ冷えた。
氷が差し込むみたいな光。
けれど、それはすぐに消える。
「……じゃあ」
柔らかく、凛華は微笑んだ。
「当日は、私が悠真くんを連れ出しに行くね」
「いや、それはいい」
悠真は即座に言った。
「目立つのは嫌だし、学校では普通に過ごしたいんだ」
凛華は首をかしげる。
「どうして?」
本気で、分からないという顔。
「他の人は、関係ないじゃない」
噛み合わない。
悠真にとって“普通に過ごす”とは、波風を立てないことだ。
凛華にとっては、“一緒にいる”こと以外、重要じゃない。
「……そういう問題じゃない」
「そういう問題だよ」
凛華は、きっぱりと言った。
少しだけ、空気が張り詰める。
その空気を解くように、凛華が声の調子を変えた。
「ね、秋休み」
箸を置き、悠真を見る。
「明後日から学校だよね。
最後の一日は、どうするの?」
「特に……予定はない」
「じゃあ」
迷いなく。
「私の家に来て」
凛華は微笑んだ。
「昨日はバタバタしてたし、今度はゆっくりしてほしい」
彼女の家なら、父はいない。
外で目立つこともない。
悠真は、選択肢を頭の中で並べる。
――断る理由は、ない。
――受け入れる理由も、強くはない。
それでも。
「……それなら」
消去法で、頷いてしまう。
凛華の表情が、少しだけ柔らいだ。
⸻
片付けを終え、凛華は帰り支度をする。
玄関で靴を履きながら、振り返った。
「明日も、同じ時間に来るね」
悠真が返事をする前に、続ける。
「明日は、何が食べたい?」
「……」
答える間もなく、凛華は夜の闇へと溶けていった。
ドアが閉まり、家の中に静けさが戻る。
けれど、完全な静寂ではない。
彼女が淹れたお茶の香りが、まだ残っている。
悠真はリビングに立ち尽くし、胸の奥に溜まった感覚を確かめる。
拒んだつもりでも、
決めたつもりでも、
いつの間にか――
自分の意思より、
彼女の「提案」が、
先に進んでいく。
そのことに、言葉にできない閉塞感を覚えながら、
悠真は何も言えず、夜を迎えた。




