10話
目を覚ました瞬間、嫌な予感がした。
静かすぎる。
眠りの途中で、何度も振動があった気がするのに――今は何も鳴らない。
瀬戸悠真は、重たい頭のまま枕元のスマホを手に取った。
画面を点けた瞬間、思考が凍る。
通知の山。
スクロールしても、スクロールしても、同じ名前。
――冬月凛華。
『まだ未読だね』
『眠ってる?』
『お願いだから返事して』
『心配してる』
そして、一番下。
『今から家に行くね』
「……は?」
声が漏れた瞬間、現実が追いついた。
――ピンポーン。
間髪入れず、家中に響くチャイムの音。
「最悪だ……」
スマホを握ったまま、悠真はベッドから跳ね起きた。階段を駆け下りながら、すでに遅いと分かっている。
玄関のドアが開く音。
父の声。
「……あれ? 凛花ちゃん?
今朝、来たばっかりだよな?」
困惑と驚きが混じった声。
「はい。でも、ちょっと急用ができちゃって」
凛華の声は、いつも通り落ち着いていた。
“急用”という言葉に、迷いも躊躇もない。
「……悠真?」
父がこちらを見る。
悠真は観念して玄関へ出た。
凛華はもう、靴を脱ぎかけていた。
迷いなく、当然のように。
「……なんで来たんだよ」
「返事、なかったから」
それだけ。
責める調子でも、怒った様子でもない。
事実を述べただけ、という顔。
その態度が、逆に息苦しい。
「友達と遊んでたんじゃ……」
「途中で抜けてきた」
即答。
凛華は悠真の腕に一瞬だけ視線を落とし、それから家の中を見回した。
「お昼、食べた?」
「……まだ」
答えた瞬間、後悔した。
凛華は小さく頷き、キッチンへ向かう。
冷蔵庫を開ける音。
……何も言わない。
もう一度、別の段を確認する音。
それでも、言葉は出ない。
凛華は静かに冷蔵庫を閉め、振り返った。
「……何も、ないね」
責める声じゃない。
淡々とした、事実確認。
父が頭を掻いた。
「あー……最近、俺も忙しくてな。
凛花ちゃん、悪いな」
「いえ」
凛華はすぐに首を振る。
「でも、このままじゃだめです」
断定だった。
父は少し考えてから、ぽん、と手を打つ。
「よし。じゃあ買い出し行こう」
「……は?」
悠真が声を上げるより早く、父は続けた。
「凛花ちゃんに甘えなさい。
悠真、お前も一緒に行って荷物持ってやれ」
背中を押される。
断る空気は、どこにもない。
「……分かったよ」
そう言うしかなかった。
凛華は、満足そうでもなく、不満そうでもなく、ただ当然のように頷いた。
「行こ」
玄関で靴を履き終え、ドアノブに手をかけたところで――
父が「あっ」と短く声を上げた。
「……いかん、危ない」
慌てた様子で踵を返し、財布を取りに戻る。
「どうしたの?」
凛華が首を傾げると、父は苦笑した。
「買い出し行くんだろ。
凛花ちゃんにお金渡すの、忘れてた」
「え、そんな……」
凛華が一応、遠慮の言葉を口にする。
けれど父は、もう財布を開いていた。
「いいからいいから。
今朝も急に来てもらったしな。悠真も、家のこと全然だし」
そう言って、折り畳んだ紙幣を凛華に差し出す。
「足りなかったら、また言って」
「……ありがとうございます」
凛華は一瞬だけ迷う素振りを見せ、それから丁寧に受け取った。
その所作があまりに自然で、悠真は口を挟むタイミングを失う。
「悠真」
父が、何気ない調子で言う。
「ちゃんと凛花ちゃんについて回って、荷物持てよ」
「……分かってる」
短く返事をすると、父は満足そうに頷いた。
凛華は財布にお金をしまい、玄関に向き直る。
「行ってきます」
それは、あまりにも普通の挨拶だった。
「行ってらっしゃい」
父がそう返すのを、悠真は止められなかった。
――自分の家なのに。
その感覚だけが、少し遅れて胸に残った。
⸻
スーパーの自動ドアが開く。
冷えた空気と、野菜の匂い。
日常的すぎる空間なのに、悠真は落ち着かなかった。
凛華がカートを押す。
その横を歩く自分。
不思議な光景だと思う。
ついこの間まで、ほとんど他人だったはずなのに。
野菜売り場で、凛華が足を止めた。
「悠真くん」
「……何」
「今は、ピーマン食べられる?」
唐突な質問。
「……たぶん」
「たぶん、じゃなくて」
凛華は彼の目を見た。
「本当のこと、教えて」
逃げ場のない視線。
「……嫌いじゃない」
答えると、凛華は小さく頷き、ピーマンをカゴに入れた。
次の棚。
「お肉は、鶏と豚、どっち?」
「……豚」
頷く。
カゴに入れる。
「辛いのは?」
「少しなら」
「少し、ってどのくらい?」
「……汗かかない程度」
凛華は一瞬考え、微笑んだ。
「分かった」
また、カゴに入る。
質問は止まらない。
味の好み。
量。
苦手な食感。
昔は食べられなかったもの。
悠真が適当に流そうとすると、凛華は必ず目を見る。
「本当?」
「……本当」
「嘘、嫌だよ」
その言葉に、背筋が冷える。
彼女は“雑談”をしていない。
情報収集だ。
一問一答。
定義作業。
悠真という存在を、今の形で再登録している。
答えるたび、凛華は嬉しそうに、あるいは大切な儀式を進めるように頷く。
悠真は気恥ずかしさと、言いようのない居心地の悪さを同時に覚えた。
興味を持たれるのは、嫌いじゃない。
でも――これは重い。
レジを出る頃には、袋はパンパンだった。
「持つよ」
悠真が言うと、凛華は当然のように渡してきた。
両手が塞がる。
ずしり、と重い。
物理的な重さ以上に、意味の重さがある。
凛華は、その袋を満足そうに見ていた。
「これで準備はできたね」
「……何の」
凛華は夕日の方を見て、微笑んだ。
「これからのこと」
そして、静かに言った。
「これから少しずつ、
悠真くんの知らない時間を、全部埋めていくから」
宣言だった。
親切の形をした、決意表明。
悠真は、返す言葉を見つけられなかった。
手に食い込む袋の重さが、そのまま彼女の期待と執着の重さのように感じられた。
沈む夕日が、二人の影を長く引き延ばす。
レジ袋は、想像以上に重かった。
中身はただの食材のはずなのに、腕にかかる負担がやけに現実感を伴っている。悠真は無言で袋を持ち替え、歩き出した。
凛華はその様子を横目で見て、満足そうに小さく笑う。
「重かったら、言ってね」
「……大丈夫」
答えながら、悠真は胸の奥に残る引っかかりを無視した。
夕暮れの道を並んで歩く。
特別なことは、何も起きていない。
ただ買い物をして、帰るだけだ。
それなのに――
自分の生活の輪郭が、少しだけずれてしまった気がしていた。
悠真は、その違和感の正体に名前をつけないまま、凛華と並んで歩き続けた




