8.5話
玄関のドアが閉まった音が、妙に大きく聞こえた。
冬月凛華は一度だけ立ち止まり、背中越しにそのドアを見た。瀬戸家の表札。白い壁。朝の冷たい空気。まだ七時にもなっていないのに、世界だけがやけに明るい。
――入った。
――連絡先を交換した。
――通知は切らないって、頷かせた。
必要なことは全部やった。だから本来なら、胸の奥に小さな灯りが点くはずだった。安心という形の灯りが。
なのに、灯りは点いた瞬間から揺れている。
凛華は指先でスマホを握り直し、画面を点けた。トーク画面の上に並んだ名前を見て、喉の奥がきゅっと締まる。
瀬戸悠真。
文字にするだけで、現実が濃くなる。濃くなるほど、失う可能性も濃くなる。
背後から足音がして、凛華はすぐに表情を整えた。仮面は滑らかに貼りつく。冷たく、凛として、隙のない顔。
「凛花ちゃん、もう帰るのか?」
瀬戸健一が玄関先まで見送りに出てきていた。寝巻きの上に上着を羽織っただけの姿が、妙に気まずいほど家庭的だ。凛華は深く頭を下げた。
「はい。突然お邪魔してしまって、すみませんでした」
「いやいや、全然。……悠真、起きてたか?」
健一は笑う。懐かしそうで、嬉しそうで、少しだけ心配そうな笑い。
凛華は微笑みを作った。柔らかく見えるように。外面のために。
「はい。大丈夫です」
その“大丈夫”は、健一に向けた言葉なのに、凛華は一瞬だけ自分に言い聞かせたくなった。
大丈夫。
もう失わない。
だから大丈夫。
「そうか。……また、いつでも来いよ」
健一の言葉は温かい。温かいのに、凛華はその温度が怖い。城門が開いていると気づくと、閉じる方法まで同時に考えてしまうから。
「ありがとうございます。失礼します」
凛華はもう一度頭を下げ、門を出た。
歩き出した瞬間、背中に残る視線が消えた気がした。瀬戸家の玄関灯は消えていない。けれど、そこにいる人の気配は薄くなる。世界の中心から、自分が少しずつ遠ざかる。
凛華は歩幅を一定に保ちながら、スマホを取り出した。
送信。
『今、家を出たよ』
すぐに続ける。
『傷、絶対にいじっちゃダメだよ』
その次。
『朝ごはん食べた?』
送信、送信、送信。
短文を連投すると、胸の奥の揺れが少しだけ収まる。糸を結び直すみたいに、繋がりが確認できる気がする。画面が“送信済み”で埋まっていくと、失う可能性が薄まる気がする。
――すぐ既読になる。
凛華は当然のようにそう思った。あれだけ釘を刺した。頷いた。だから、見る。見るはずだ。
住宅街の道を曲がっても、スマホは震えない。
凛華は歩きながら画面を見た。
未読。
胸の奥が、一度だけ冷える。
でも、まだだ。寝起きだった。二度寝するかもしれない。朝食を食べるかもしれない。父親と話しているかもしれない。そういう“普通”の理由はたくさんある。
凛華は自分に言い聞かせる。
悠真は、普通の男の子だ。
普通に、遅れる。
普通に、すぐ返さない。
だから――
それでも指は、数分おきに画面を更新してしまう。更新して、未読で、胸が熱くなって、また更新してしまう。
冬月家が見えてきた。
玄関の前で一度深呼吸し、凛華は仮面を貼り直した。家に入れば母がいる。母の前では、揺れを見せない。揺れは弱さだ。弱さは、失う。
ドアを開ける。
「ただいま」
「おかえりー。早かったじゃない。ふふ、青春?」
母の声が明るい。台所から水音がする。
凛華は笑わなかった。
「違う」
短く否定して、靴を揃える。その動作にだけ、集中する。整える。整っていれば、壊れない。
部屋に戻る途中、凛華はもう一度スマホを見た。
未読のまま、増えた短文が並んでいる。
凛華の胸の奥で、揺れていた灯りが――ゆっくりと、別のものに変わり始める。
安心ではなく、焦燥に
すいません。話の順番の変え方分からなかったので一旦このままにしてます。




