9話
スマホの画面に映る文字は、変わらない。
【未読】
冬月凛華は、自分の部屋のベッドに腰を下ろしたまま、その二文字を見つめ続けていた。指先で画面を上へ下へと滑らせる。送った短文が並ぶだけ。返信はない。既読にもならない。
『今、家を出たよ』
『傷、絶対にいじっちゃダメだよ』
『痛かったら言って』
『朝ごはん食べた?』
何度見ても、未読。
カーテンの隙間から日の光が入ってくる。時計の針が進む。部屋の空気は温かいのに、凛華の胸の中だけが冷たい。
――通知、切らないでね。
自分は確かに言った。悠真は確かに頷いた。あの頷きは嘘じゃない。嘘じゃないはずなのに、未読が増えていく。
凛華はスマホを握り直した。力が入りすぎて、指の関節が白くなる。
考えたくないのに、考えてしまう。
通知を切った?
眠ってる?
スマホが壊れた?
怪我が悪化した?
倒れてる?
誰にも気づかれないまま?
最悪の想像が、階段みたいに整然と並び、勝手に下へ下へ降りていく。凛華はそれを止められない。止めたら、代わりに何を信じればいいのか分からなくなる。
連絡先は確保した。怪我も確認した。なのに安心できない。確認は“瞬間”でしかない。瞬間の次に、何が起きるかは分からない。
凛華はベッドから立ち上がり、部屋の中を小さく歩いた。落ち着けないときの癖だ。歩いて、戻って、また画面を見る。
未読。
「……なんで」
呟きが漏れた。声は自分でも驚くほど低い。
凛華はスマホの通話画面を開きかけて、止めた。電話はだめだ。朝の訪問で、悠真の家に侵入した。あれ以上、怖がらせるわけにはいかない。
怖がらせたら、逃げる。
逃げたら、終わる。
凛華は、深く息を吸って、吐いた。母の言う“心配性”なんかじゃない。これは、必要な警戒だ。失わないための当然の行動だ。
――行かないって言った。
あの言葉は、契約だ。
契約があるのに、未読。
契約があるのに、沈黙。
凛華は、スマホの画面をそっと撫でた。まるで、そこに悠真の体温が残っていると信じるみたいに。
時刻は、午前十一時を過ぎていた。
今日は駅前で友人たちと会う約束がある。外面の予定。断れば角が立つ。角が立てば面倒が増える。面倒が増えれば、悠真の周囲が汚れる。
だから行く。
行くけれど、凛華の意識はずっとスマホの中に沈んだままだ。
身支度をする。髪を整える。服を整える。鏡の前で表情を作る。凛とした美女の顔。“高嶺の花”の顔。
仮面を被る。
その瞬間だけは、凛華は落ち着く。仮面を被っていれば、世界は秩序立つ。自分は自分の役割を果たせる。
でも、スマホが震えない。
未読が、未読のまま。
凛華の胸の底で、焦りが静かに沸騰していく。
⸻
駅前は、再開発の匂いがする。
新しくできた商業ビル。ガラス張りのカフェ。明るい看板。休日の人の流れ。千白町はほどよく発展している。ほどよく、という言葉がいちばん性質が悪い。変わっていくのに、完全に変わりきらない。過去を捨てきれないまま、上書きだけしていく。
凛華は、人の波を縫って歩いた。
ポケットの中で、スマホが存在を主張する。重い。そこにあるだけで、意識が引っ張られる。画面を見るな、と自分に言い聞かせても、指が勝手に動きそうになる。
合流場所に着くと、友人たちが先に待っていた。
「凛華ー! こっちこっち」
明るい声。笑い声。手を振る仕草。普通の女子高生の集合。凛華はその輪の中に入る。
入るのに、一瞬だけ呼吸が苦しい。
友人の一人が、凛華の顔を覗き込んだ。
「ねえ、凛華。なんか今日、顔つき違くない?」
別の子も言う。
「分かる。いつもより怖いっていうか……目、鋭い」
凛華はすぐに微笑んだ。口角だけを上げる、薄い微笑み。
「そう? 寝不足なだけ」
「え、珍し。凛華が寝不足とか」
「なにそれ、彼氏できた?」
冗談が飛ぶ。笑いが起きる。
凛華は笑わなかった。笑うべきところで笑うと、自分の中の何かが漏れる気がした。代わりに、軽く首を振る。
「ない」
「即答こわ」
また笑い。
その間にも、凛華の指先はポケットのスマホに触れそうになって、堪える。
見ても、未読だと分かっている。分かっているのに、見ないと不安が増える。
本屋に入った。新刊コーナーを眺めた。友人が漫画を手に取って騒いだ。凛華は頷いて、相槌を打って、必要なリアクションを返す。
でも意識は半分しかここにいない。
通知が鳴らない。
その事実が、じわじわと苛立ちに変わっていく。
自分は朝、会いに行った。部屋に入った。連絡先を交換した。確認した。釘も刺した。
それでも未読。
まるで、凛華の言葉が届いていないみたいに。
“届いていない”のが耐えられない。
新しくできたカフェに入った。ガラス越しに外が見える席。注文の列。砂糖の匂い。音楽。明るい照明。
ここは、外面のための場所だ。
凛華はメニューを見て、適当に選ぶ。友人が写真を撮る。笑う。凛華も、笑うふりをする。
ふりをする間、ポケットのスマホが震えない。
苛立ちが指先に集まる。指が小さく震えた。カップを持つ手が僅かに不安定になる。
友人が眉をひそめた。
「……凛華、ほんと大丈夫?」
「大丈夫」
即答。短すぎる。冷たすぎる。
友人たちが顔を見合わせる気配がした。けれど、凛華はもう取り繕う余裕が薄かった。仮面の粘着が弱くなる。
そして、最悪の話題が、自然に流れてきた。
「そういえばさ」
誰かが言った。
「隣のクラスの転校生、知ってる? 瀬戸、だっけ」
凛華の世界が、一瞬止まった。
耳が、その名前だけを拾う。
悠真。
凛華は、カップを置いた。音が小さく鳴る。自分でも気づかないほどに、動きが硬い。
「なんかさ、あの人、全然馴染もうとしないらしいよ」
「うちのクラスの子が言ってた。準備もう終盤なのに、あの人“当日どうするの?”って扱いらしいよ。クラスの空気に入らないって
「都会から来たくせに、偉そうじゃない? お荷物感すごいって」
笑い交じりの冷やかし。嫉妬混じりの噂話。閉鎖的な学校の、いつもの“消費”。
凛華の中で、何かが剥がれた。
温度が消える。
目の前の友人たちが、急に遠くなる。声が薄くなる。カフェの音楽が雑音になる。
悠真は、凛華の“聖域”だ。
誰にも触らせない。
誰にも汚させない。
何も知らない部外者が、勝手に評価していい存在じゃない。
凛華は、友人の言葉が終わる前に顔を上げた。
視線が、氷みたいに冷たい。
射抜くような目。
友人たちが言葉を失った。笑いが止まる。空気が固まる。さっきまでの“楽しい休日”が、真空になる。
「……それ、誰が言ったの」
凛華の声は静かだった。静かすぎて、逆に怖い。
「え、いや……みんな、そう言ってるっていうか……」
「“みんな”って誰」
追い詰める問い方。凛華は自覚していた。自覚していて、止められなかった。
友人の顔色が変わる。目が泳ぐ。言葉が詰まる。
「凛華、ちょ……」
「知らないなら、言わないで」
凛華は淡々と言った。
「人のこと、勝手に“お荷物”とか言わないで」
友人が何か言い返そうとして、言えない。凛華の視線が、場を支配している。普段の“高嶺の花”の冷たさとは違う。もっと切実で、もっと刃物みたいな冷たさ。
凛華の胸の奥で、憤りが燃えている。
殺意に近いほどの、排除欲。
――汚すな。
その一言が、喉まで上がってきて、凛華は飲み込んだ。言ってはいけない。ここで言えば、外面が崩壊する。面倒が増える。悠真の周囲が汚れる。
凛華はゆっくりと息を吸い、吐いた。
そして、立ち上がった。
「……急用を思い出した」
友人たちが驚く。
「え、ちょっと、今から?」
「凛華、待って、さっきのは――」
「ごめん」
謝罪の形だけを置く。心は謝っていない。
凛華は伝票の横に、財布から現金を置いた。多めに。お釣りはいらない。金で切れる縁なら、今はそれでいい。
友人たちが何か言いかける。凛華は振り返らない。
向かうべき場所は、ここじゃない。
友人たちのいる“今”じゃない。
悠真のいる“家”。
⸻
駅前を出ると、風が冷たかった。
凛華は歩きながら、スマホを取り出した。トーク画面を開く。未読のまま並ぶ自分のメッセージ。画面の上部に表示される名前。
瀬戸悠真。
指が迷わず動く。
『今から家に行くね』
送信。
未読の上に、新しい一文が積まれる。返信を待たない。待てない。
凛華はスマホをポケットに戻し、歩幅を速めた。足取りが確信に変わる。迷いが消える。焦燥が方向を持つ。
返信がないなら、取りに行く。
未読なら、開かせる。
大丈夫かどうか分からないなら、目で確かめる。
凛華の中では、それが当然だった。
失うより、侵入する方が正しい。
怖がらせるより、消える方が怖い。
嫌われるより、いなくなる方が怖い。
凛華の足音が、アスファルトを強く叩く。
再開発の街角を抜け、住宅街へ向かう道。風が髪を揺らす。頬が冷える。胸の奥だけが熱い。
悠真の家が近づく。
凛華はもう、止まらなかった。




