境界案件
裁定塔の上階は、音がなかった。
階段を上るたび、外の気配が削られていく。
市場のざわめきも、風の音も、
まるで最初から存在しなかったみたいに消えていった。
円形の部屋。
床には複雑な文様。
壁には、名前の消えかけた石板が並んでいる。
俺は、その一つも読めなかった。
リオスが中央に立つ。
「シン。
裁定は終わった」
言い切りだった。
相談でも、宣告でもない。
俺はネコを抱いたまま、黙って待つ。
「お前を、この世界の市民にはしない」
……まあ、そうだろうな。
「だが、排除もしない」
一拍。
「お前は境界案件だ」
聞き慣れない言葉だった。
「光世界にも、こちらの世界にも、
完全には属さない存在。
規則の外に置かれる者」
「……要するに、厄介払いか?」
リオスは否定しなかった。
「そうとも言える」
正直すぎて、少し笑いそうになった。
「じゃあ、俺は何だ。
幽霊か?」
「役目がある」
その言葉で、胸の奥が小さく鳴った。
リオスは壁の一部に手を置いた。
石が音もなく沈み、奥に細い通路が現れる。
「異世界に落ちてくる者は、
全員が裁定に耐えられるわけではない」
通路の向こうは暗い。
「暴力に慣れた者」
「依存に壊された者」
「救われる期待だけを抱いて来た者」
リオスは淡々と続ける。
「そういう者たちは、
裁定の前に壊れる」
俺の喉が、ひくりと鳴った。
「お前は、壊れなかった」
「……たまたまだ」
「たまたまではない」
リオスは俺を見た。
初めて、裁定官じゃない目だった。
「お前は、自分が“やべぇ側”だと知っている」
その一言で、逃げ道が塞がれた。
「だから命じる」
命じる、って言葉を使ったのに、
声は静かだった。
「次に落ちてくる“境界予備群”に、
最初に会え」
「説得しろとは言わない」
「救えとも言わない」
「話をして、
連れて来られるかどうかを見極めろ」
俺は、思わず笑った。
「……なんで俺なんだよ」
リオスは、少しだけ間を置いた。
「お前なら、
嘘をつかれても分かる」
「助ける気がない目も、
もう何も期待していない顔も」
「それを、
装置より先に嗅ぎ取れる」
ネコが、俺の腕の中で小さく鳴いた。
「期待してんのか?」
俺は聞いた。
リオスは首を振る。
「期待はしていない」
……だろうな。
「だが――
お前以外に、適任がいない」
その言葉は、
生活指導の先生の声と、
ひどく似ていた。
「拒否権は?」
「ある」
即答だった。
「拒否すれば、
お前はこの世界の外に置かれる」
「戻るか、消えるかは分からん」
俺は下を向いた。
ネコの背中を、ゆっくり撫でる。
……くそ。
「……連れてくるだけでいいんだな」
「ああ」
「失敗しても?」
「責めない」
それが、一番やばかった。
俺は深く息を吸った。
「分かったよ」
顔を上げる。
「俺みたいな奴に会わせろ」
リオスは、初めてほんのわずかに頷いた。
「決まりだ」
床の文様が、静かに光る。
緑でも赤でもない、
曖昧な色。
境界の色。
「ようこそ、シン」
リオスは言った。
「この世界の、
表にも裏にも属さない役目へ」
ネコが、肩の上で尻尾を揺らした。
俺は思った。
――期待に応えたい、なんて気持ちはない。
でも。
見捨てなくていい役目なら、
やってもいい。
そう思ってしまった時点で、
俺はもう、一歩踏み込んでいた。




