救い
時間は、驚くほど静かに流れていた。
少年は変わらない。
笑わないし、泣かない。
でも――消えもしなかった。
ネコは最初の頃こそ警戒していたが、三日目には少年の足元で丸くなった。
撫でられてもいないのに、逃げなかった。
「……猫、嫌いじゃない?」
シンがそう聞くと、少年は少し考えてから答えた。
「……殴られないから」
それだけだった。
理由でも説明でもない。
事実を並べただけの声。
胸の奥が、じわりと痛む。
怒りじゃない。
もう慣れてしまった痛み。
食事を出すと、少年は必ず残した。
量の問題じゃない。
空腹でも、途中で手を止める。
「もういいのか?」
「……取られる前に、やめる」
ああ、そうだ。
奪われる経験が、満腹より先に来る人生だった。
それでも日が重なるにつれ、ほんの少しずつ変化があった。
質問に答えるまでの沈黙が短くなった。
ネコの耳を、指先でなぞるようになった。
眠るとき、目を閉じる時間が長くなった。
生きている、というより
死ぬのを一時的に忘れているような時間。
その異変に、最初に気づいたのはシンだった。
少年の体温が、少し低い。
呼吸が浅い。
立ち上がると、必ず一拍遅れる。
「……疲れた?」
少年は首を振る。
「……いつも、こんな」
嘘じゃない。
この子の(普通)が、もう壊れている。
夜。
ネコが珍しく鳴いた。
少年は床に座ったまま、壁にもたれている。
目は開いているのに、焦点が合っていない。
「……ねえ」
シンが声をかける。
返事が、ない。
慌てて肩に触れると、少年はゆっくりとこちらを見た。
「……ここ、まだある?」
その問いに、胸が締めつけられる。
「ある。ここにいる」
「……そっか」
それだけで、少年は安心したように息を吐いた。
その夜から、少年は急に弱っていった。
歩く距離が短くなり、
言葉が減り、
目を開けている時間が減る。
でも、苦しそうではなかった。
まるで、長い緊張が解けていくように。
力を抜くことを、初めて許された身体みたいに。
最期の朝。
少年はシンの袖を、弱く引いた。
「……ねえ」
「どうした?」
「……何も、選ばなくて……怒られない?」
その言葉で、すべてが繋がった。
この子は、
生きることも、死ぬことも、
自分で選んでいない。
ただ、選ばないことで殴られずに済む世界を、
必死で渡ってきただけだ。
「怒られない」
シンは、はっきり言った。
「ここでは、怒られない」
少年は、少しだけ口元を緩めた。
それは笑顔とは呼べない。
でも、確かに――安堵だった。
ネコが胸の上に乗る。
少年は、最後にそれを一度だけ撫でた。
「……あったかい」
それが、最後の言葉。
呼吸は、静かに、途切れた。
泣き声は、出なかった。
叫びも、なかった。
ただ、
「守れなかった」という事実だけが、
重く、重く、シンに残った。
その場に座り込んだまま、
時間がどれほど過ぎたのかわからない。
――そのとき。
背後から、低く、落ち着いた声がした。
「……シン」
振り向くと、リオスが立っていた。
「よく、そばにいたな」
責める声じゃない。
慰めでもない。
ただの、事実確認。
「……救えなかった」
シンの声は、掠れていた。
リオスは一瞬、少年の亡骸に目を向け、
それから静かに言った。
「違う」
「この子はな、
初めて選ばなくても殴られない場所で死ねた」
その言葉が、胸に落ちる。
「それは救いじゃない、と言うなら」
リオスは続ける。
「この世界に、救いなんて最初からなかった」
でも、と彼は一拍置いた。
「それでもお前は、
この子の最後の時間を奪わなかった」
「それだけでいい」
シンは、ようやく声を漏らした。
「……それで、よかったのか?」
リオスは答えない。
代わりに、ネコが小さく鳴いた。
その鳴き声が、膜を張ったように
やけに遠くから聞こえた。
「……でも」
シンは、視線を少年から逸らせないまま言った。
「裁定塔に行っていれば……」
言葉にした瞬間、
自分の声がどれほど縋りついているかが、わかってしまった。
行っていれば。
並んでいれば。
選んでいれば。
リオスは、ゆっくり首を振った。
「行けなかったんだ」
その一言は、刃物みたいに静かだった。
「裁定塔はな、
自分の生をどうするかを選べる者しか辿り着けない」
シンの喉が、鳴る。
「この子は……」
「選ばなかったんじゃない」
リオスは、はっきり訂正した。
「選ぶという行為を、壊されてきた」
胸の奥で、何かが崩れ落ちる。
「裁定塔に行かなかったから死んだんじゃない」
「行けないまま生きてきた結果として、ここで尽きた」
残酷なほど、理屈は整っていた。
「……じゃあ、オレは」
シンの声が震える。
「ここで何をしてたんだ」
助けたつもりで、
救ったつもりで、
ただ終わりを見届けただけじゃないのか。
リオスは、少しだけ目を細めた。
「お前はな」
「この子が[裁定塔に行けなかった理由]を、初めて理解しようとした存在だ」
それは、慰めじゃない。
免罪でもない。
ただの事実。
「だからだ、シン」
「驕るな」
その言葉は厳しかったが、冷たくはなかった。
「お前に、命を救う力はない」
一拍。
「だが――
命がどう壊れるかを知る力は、確かに得た」
その瞬間、シンは悟った。
この子は、
生きる意味を見つけたから死んだんじゃない。
生きる意味を探す途中で、
初めて[安心して終われる場所]に辿り着いてしまっただけだ。
シンは、少年のそばに膝をついた。
胸が、焼けるように痛い。
それでも。
この痛みを知ってしまった以上、
もう戻れない。
シンは思った。
命は、救えなくても。
どう生き、どう壊されるかを理解しようとすること自体が、
次の誰かに渡る【バトン】になるのかもしれない。と




