怒りに呑まれる
境界区域に立って三日目。
俺はもう、
「次が来る」感覚を、身体で分かっていた。
空気が、重くなる。
耳鳴りみたいな沈黙。
ネコが、足元で背中を丸める。
来る。
次の瞬間、
男が地面に叩きつけられるように現れた。
受け身も取らず、
転がって、土埃を上げる。
「……っざけんなよ……」
最初の言葉が、それだった。
男は立ち上がると、
すぐに俺を見た。
いや、
睨みつけた。
「お前だな」
意味が分からなかった。
「ここにいるってことは、
全部知ってんだろ」
近づいてくる。
距離が、近い。
「なんで俺なんだよ」
声が、荒れていた。
「なんで、あいつじゃなくて、俺なんだ」
俺は、動かなかった。
「なあ!」
胸ぐらを掴まれた。
反射的に、ネコが動いた。
低い唸り声。
一瞬で、男の腕に飛びかかる。
爪が、皮膚を裂いた。
男が叫ぶ。
「っ、このクソ猫!」
振り払う、というより、
叩き落とす動きだった。
ネコは地面に転がった。
小さく、息を詰める音。
それを見た瞬間、
俺の中で、何かが冷えた。
男は、まだ怒鳴っている。
「守るもんがある奴が!
なんで俺より先に――!」
何を言っているのか、
全部は分からなかった。
でも、分かったことが一つある。
この男は、
誰かを失っている。
「俺は……!」
声が、震え始めた。
「俺は、ちゃんとやってたんだ……!」
怒りの底に、
崩れかけた何かが見えた。
でも、
それでも。
俺は、手を伸ばさなかった。
助けない。
止めない。
慰めない。
ただ、そこに立っていた。
男は、しばらく叫び続けて、
やがて息が切れた。
肩で、息をする。
視線が、揺れる。
裁定官が、現れた。
男は最後に、
俺を見た。
「……お前、
何なんだよ」
答えは、なかった。
裁定は下り、
男は引きずられるように連れていかれた。
静けさが戻る。
俺は、ネコのそばにしゃがみ込んだ。
生きている。
ただ、少し怯えている。
そっと、背中に手を置く。
怒りは、
ぶつける相手を間違えると、
何も救わない。
でも。
怒りを持てるほど、
必死に生きていた証でもある。
それが、
裁定に届かないこともある。
シンは思った。
怒りは、
期待よりも、
ずっと重たい荷物だ、と。




