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あの日、彼が遺してくれたもの

作者: 志岐咲香

私はアデル・ロズベルグ。


北東の寒冷地に領地を持つ、名門ロズベルグ伯爵家の三女として生まれた。

家の誇り、血筋、格式──すべてに縛られたこの家では、息をするのも窮屈だった。


私が彼と出会ったのは十歳の頃だった。


名はフェルディオン・ノルデレスト。

東の山間にある、新興の伯爵家の跡取り息子。格式は低かったけれど、領地に新たに発見された魔鉱石鉱山の管理を任される予定だということで、将来性を見込まれて婚約が決まった。


彼の容姿は、貴族社会では控えめで目立たない部類だった。

髪は濃い藍色──インディゴブルー。光に当たっても派手に輝くことはなく、落ち着いた印象を与えた。

瞳はくすんだ琥珀色。静かな炎のようで、まるで心の内に小さな灯をともしているようだった。

長身でもなく、恵まれた容貌でもない。けれど、その目が、私は最初から忘れられなかった。


「……きみが婚約者で、よかった」


初めて顔を合わせた日の、その一言。

形式だけの婚約関係。私はただ家の都合でここに来ただけだった。

正直、気が進まなかった。彼に心を開くつもりなどなかった。


でも──彼は違った。


何気ない言葉の端々に、私という人間をきちんと見て、尊重してくれているのがわかった。

「ありがとう」「無理しなくていいよ」「アデルの話をもっと聞かせて」──

そんな言葉に、私は少しずつ心をほどいていった。


私にとって“家族”とは、政略の駒として役割を押し付けるだけの存在だった。

父も母も、姉も兄も。誰ひとりとして、私自身を「大切にしたい」と言ってくれたことはなかった。


けれど彼は違った。


まるで私を壊れやすい宝物のように、大切に扱ってくれた。

笑ってくれただけで嬉しい、そんな目で私を見てくれた。

彼といるときだけ、私は人間として存在してもいいのだと思えた。


フェルディオンの両親もまた、温かい人々だった。

格式よりも人柄を重んじる家庭で、伯爵夫人は私に手編みの膝掛けを渡し、伯爵閣下はいつも優しい冗談で笑わせてくれた。

この家の娘になれたら、どんなに幸せだろうと、心から思った。


彼の家と私の家は隣領地だった。距離も近く、月に四度は互いの家を行き来した。

最初は侍女付きの形式的な訪問だったけれど、やがてお互いの部屋に上がり込み、お茶を淹れ合うようになった。

彼が焼いてくれた素朴な菓子の味は、今でも忘れられない。


姉たちの結婚は悲惨だった。

泣いて嫁いだ姉もいれば、心を失ったように笑わなくなった姉もいた。

そんな姉たちの姿を見て、私はよくわからない恐怖を抱いていた。


でも、フェルディオンとなら──私は、幸せになれるかもしれない。

そう思えた。

自分が誰かに愛され、大切にされ、未来を共に歩めるのだと信じられた。


神様、ありがとう。

私は毎晩、そう祈った。


けれど──世の中は、そんなに優しくはなかった。




十五の春、私は王都にある貴族の令息令嬢が集う学園に入学した。

それからも、私たちは変わらず仲睦まじく過ごしていた。


校舎の中庭、図書館の片隅、授業の合間の短い時間──

誰の目を気にすることもなく、私たちはごく自然に隣にいた。

彼と過ごす日々は、まるで穏やかな陽だまりの中にいるようで、私は初めて「守られている」という安心を知った。



卒業パーティーの夜。

煌びやかな音楽と舞踏が交錯するなかで、恒例の“銀花の誓い”が行われた。


それは、王国の象徴である銀花にちなんだ告白の儀式。

模造の銀花を好きな人に差し出し、想いを伝えるという伝統だ。

想いが受け入れられれば、ふたりは永遠に結ばれる──

そんな幸福のジンクスを信じて、貴族の若者たちは銀花を手に、想い人のもとへと向かっていく。


そして、彼──フェルディオンも、白く光る銀花を手に、私の前に現れた。


「アデル。僕と、生涯を共にしてくれますか?」


緊張を隠せない面持ちで差し出されたその花に、私は迷わず頷いた。


「はい、喜んで」


その瞬間、周囲のざわめきが消えたかのように感じた。

彼の瞳の奥に映る私の姿と、手の中にある銀花のぬくもりが、すべてを満たしてくれた。


私たちは──幸せだった。


ふたりで歩む未来を信じていた。

何もかもが、うまくいくと疑わなかった。

彼となら、何があっても乗り越えられると本気で思っていた。


学園を共に卒業したあと、約束通り一年後に結婚式を挙げる予定だった。

彼の領地は隣接していたため、卒業後も私たちは変わらず顔を合わせることができた。

互いの家を行き来し、時には馬車の中で手紙を交換し、夜には庭先で星を見ながら語り合った。


私の姉達は、政略結婚で冷え切った家庭に嫁いでいった。

こんなに優しく、穏やかで、私の存在を一人の人間として大切にしてくれる彼と結ばれる私は、なんて恵まれているのだろうと。

きっと、神様が与えてくれた奇跡に違いない。


けれど──


幸福は、永遠には続かなかった。




卒業後、フェルディオンの身体は、ゆっくりと、しかし確実に弱っていった。


「最近、少し疲れが取れなくてね」

最初はそんな他愛ない言葉だった。

それが、何週間も続いた。

微熱が下がらない。咳が止まらない。朝、なかなか起きられない。


彼は医師の診察を受けたが、明確な病名は告げられなかった。

気候のせいか、体質なのか。

それでも彼は、私と会うたびに笑ってくれた。

私の前では、変わらず穏やかで優しい人でいようと、懸命だった。


だが、ある時を境に、彼はもう外に出てこなくなった。

訪ねても、迎えてくれるのは使用人だけだった。


「ごめん、アデル……今日は、顔を見せられそうにないや」


扉越しのかすれた声が、胸に痛く刺さった。


そして──

何度目かの訪問のあと、ようやく彼が顔を見せてくれた日。

私の前に現れた彼は、以前の面影を残しながらも、痩せ細っていた。

肌の色は青白く、髪はやや艶を失っていた。


それでも、彼は笑った。


「アデル……来てくれて、うれしいよ」


「……また、無理をして……」


「ううん、大丈夫。今日は、ちゃんと話したくて……」


彼は震える手で私の手を握り、ぽつりと言った。


「ぼく……もう長くないかもしれない」


その声はあまりにも静かで、あまりにも現実的だった。

私は否定することもできず、ただ彼の手を強く握った。


「君が、僕以外の人と結婚するのかと思うと、それが……嫌でたまらないんだ」


私は──涙をこらえながら、彼の手を両手で包み込むように握りしめた。


「……あなた以外と結婚しないわ」


「……本当?」


揺れる声で問う彼に、私は静かに頷いた。


「本当よ」


しばし沈黙が流れた。

彼の目が、何かを決意したように細められる。


「ちょっと早いけど……」

そう言って、彼は枕元の小箱を取り出した。

蓋を開けると、そこには繊細な彫り模様の入った、細い銀の指輪が二つ──。


「ずっと前から、作ってたんだ。君と僕、ふたりの分」


それは、彼と私の手の大きさに合わせて丁寧に仕立てられた、結婚指輪だった。


「これをつけていたら、いつも君と一緒だね」


「ええ。……だから、早く元気になって」


「もう、元気になってきたよ。君がそばにいてくれるから」


彼が、ふっと笑った。

あの頃のような、明るく無邪気な笑顔。

それがどれほど久しぶりだったか、私は一瞬、涙を忘れて見とれてしまった。


「……結婚しようね」


その言葉が、私と彼との──

最後の約束だった。


その約束が果たされる日は、永遠に訪れなかった。


運命は、いつも残酷だ。




彼は、もう起き上がることさえできなくなった。

話すのもやっと、まばたきすら遅くなった頃、私は再び彼の枕元に呼ばれた。


「アデル……前に言ったことは、忘れていいよ。指輪も、……捨ててほしい」


弱々しく、それでも優しく微笑んだ彼が、こう続けた。


「君には、幸せになってほしいんだ。僕は、君といられて……本当に幸せだったから……アデル、君には、ずっと笑っていてほしい……」


そして、彼は、震える指先で小さな布を私の手に押し当てた。


銀の糸で縫い取られた、たったひとつの花──それは、小さな布でできた袋状のお守りだった。

あの夜、卒業パーティーで受け取った銀花を模して、彼が、自分の手で初めて刺した銀花だった。

形はいびつで、針目は粗く、決して上手とは言えなかったけれど。


「……君のために、刺してみたんだ。下手でごめん……でも……お守り、になればいいなって……」


それが、彼の最後の贈り物だった。


それから──私は、彼に会えなくなった。


彼の屋敷の扉は、どれだけ叩いても開かなかった。

伝えられたのは、「静養に専念している」という言葉だけ。


でも、私は知っていた。

もう──間に合わないのだと。



数日後。

彼の訃報が、使いの者の口から告げられた。



彼をお見送りした時、彼の指には結婚指輪があった。



私は壊れた。

何も食べられず、何も話せず、ただ泣いていた。

それでも手元の銀花のお守りと、その中に入った結婚指輪だけは、ずっと握りしめていた。


喪が明けた日、父が言った。


「アデル。次の婚約相手を見つけた。すぐにでも顔合わせだ。女は、見た目がすべてだ。しっかり化粧をしておけ」


私はまだ、彼の名を口にするだけで涙が出るほどに傷ついているのに。


「……はい、お父様」


私は、ただ従うしかなかった。

貴族の娘なんて、政略の駒だ。

泣こうが喚こうが、親の命令は絶対。


でも──どうしても、どうしても、それだけは嫌だった。


次の日、私は彼の屋敷の門の前で叫んだ。


「ねえ! フェルディオン、出てきて……! 嘘だと言って……お願い……早く出てきてくれないと……私……別の人と結婚させられちゃうの……!」


声が枯れるまで泣き叫んで、崩れるように座り込んだ。

そのとき、彼の両親が出てきた。


「アデル様……息子のことを、そんなに愛してくれてありがとう。あの子も、きっと天国で喜んでいると思います」

「……でも、あなたは、あなたの人生を歩んでください」


「……彼のいない人生なんて、空っぽで──生きている気がしないんです……」


そうつぶやいた私に、彼の母がそっと手を握って言った。


「少しだけ、待っていてください。

あなたの意思を尊重してくれる方を……高位の貴族で、あなたを保護してくれる方を……私たちで探します」


それから数日後──

次の婚約者と顔を合わせがあった。

機嫌がよさそうに笑う大人たちと、傲慢そうな男性。

私は心を殺して耐えた。


その夜──

彼の両親から託されていた通信魔道具が、かすかに光を放った。


「……アデル様、用意はできていますか?」


彼の両親からだった。

私は夜のうちに屋敷を抜け出した。


紹介状を手に、馬車に揺られて何日もかけて向かった先。

それは──とある公爵家だった。




大きな屋敷の門をくぐった私を迎えてくれたのは、威厳ある初老の男性だった。


応接室へと案内されたのは、屋敷の一階──従業員の面接や商用客の応対に用いられる、比較的簡素ながらも格式を保った部屋だった。

重厚な木製のドアの先、深緑の絨毯が敷かれた空間に、私たちは腰を下ろす。


さきほどの初老の男性に、品格ある女性が加わって向かいの席に着いた。

初老の男性の胸元には、格式高い公爵家の紋章が光っている。


「ようこそお越しくださいました。私、執事長のベルンハルト・クロイツナーと申します」


クロイツナー家とは名門伯爵家である。

その立ち居振る舞いには、確かな育ちと長年の経験が滲んでいる。


私は緊張しながら紹介状を差し出した。


「ノルデレスト伯爵より、確かにご紹介を承っております」

封を開いたクロイツナー執事長は、それに一瞥をくれると、静かに頭を下げた。


「御身のご悲嘆、心よりお察しいたします」


彼は胸に手を当て、一礼する。

その所作には、儀礼以上の敬意が込められていた。


女性の年の頃は五十代後半だろうか。よく手入れされたグレイの髪をきりりと結い上げ、無駄のない動作で頭を下げた。


「ウィンターガルド家侍女長、レオノーラでございます」

そして目を伏せ、静かに一言。


「……安らかなる眠りを」


その言葉には、形式ではない哀悼の意が宿っていた。

私は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。



一呼吸を置き、クロイツナー執事長が問う。

「さて──単刀直入に伺いましょう。ロズベルグ嬢、貴女のご要望は?」


「……はい。大変身勝手な願いではございますが──ロズベルグ伯爵家よりの保護を、お願い申し上げます」


「具体的には?」


「新たな縁談が……進められようとしております」

私は膝の上で手を組み、震えないように唇をかみしめた。


「ですが……私は……」

言葉が詰まり、涙があふれそうになるのをこらえる。


「私は、フェルディオン・ノルデレスト様の妻です。他の方に嫁ぐつもりはございません」


そう言って、私は右手で隠していた左手をそっと差し出した。

薬指には、彼と交わした約束の証――ペアの結婚指輪が、ひっそりと輝いていた。


「では、婚姻から守ってほしいと?」


クロイツナー執事長の問いに、私はこくりと頷いた。


「はい……」


「……我が主、ウィンターガルド公爵家に、何のメリットがあるとお考えですか?」


その声色は決して威圧的ではない。けれど、明確な“試し”が含まれていた。

私は一瞬、答えに詰まった。


「……」


「例えば貴女を主が保護したとしましょう。当然、ロズベルグ伯爵家より抗議があるはずです。酷な話ですが、貴族令嬢である以上、貴女は家の大切な資産なのです」


その言葉は、鋭く胸を突いた。けれど──わかっていた。ずっと、そうだったのだ。


「……存じております」


静かに、けれどはっきりと答える。


「私どもも、慈善事業ではありません。貴女を保護する以上、ウィンターガルド領にとって相応の見返りがなくては。……貴女は、それだけの“覚悟”がおありなのですか?」


その眼差しは真剣だった。軽々しく言葉を返せば、すぐに見透かされるだろう。


私は背筋を伸ばした。

震える手を膝の上で組み、左手の薬指にある指輪を、そっともう一度握りしめる。

それが、彼の想いを、私の背中に押してくれているような気がした。


「……生涯、婚姻を強いられることなく、それに準じる行為をも免れることが叶うのなら……」


唇を噛みしめ、私はまっすぐに彼を見返した。

私は理解している。

どこへ行こうと、貴族の娘である以上、私は誰かの駒でしかない。

差し出され、従わされ、使われる──それが貴族令嬢の運命。


けれど、それなら。

せめて、その運命くらいは、自分で選びたい。

誰に仕えるのか、どこで生きるのか。

望むのはただ一つ──

生涯、あの人の妻として心を貫くこと。

それだけが、私にとって唯一の真実だった。


「公爵に忠誠を誓い、生涯そのお側につかえ続ける所存です。ロズベルグ伯爵家の娘として受けた教育は、公爵家に恥じない振る舞いができると、自負しております」


部屋が静まり返る。


クロイツナー執事長は目を細めると、一瞬だけ眼差しを柔らかくした。


「──この公爵領は、海越しに隣国があり、戦火が起きれば最前線となります。その時あなたは、公爵領のために命を捧げると、ここで誓えますか?」


声は静かだったが、その意味は重い。

貴族の令嬢であっても、いざというときは“盾”になる覚悟が求められている。


私は迷わなかった。


「……誓います」


すると、隣に座っていた侍女長が、静かに口を開いた。


「では──私のもとで預かりましょう」


レオノーラ侍女長の声は澄んでいたが、その奥には揺るぎない厳しさがあった。


「侍女としての正式な教育を受けていないなら、まずはそこからです。礼儀作法、言葉遣い、衣食住の整え方まで──一から叩き込みます」


彼女は、まっすぐに私を見た。


「厳しく参ります。……そのつもりで」


私は深く頭を下げた。


「……ありがとうございます。どうか、よろしくお願いいたします」


こうして私は、公爵家の侍女として、第二の人生を歩き始めたのだった。



侍女として働き始めてからの日々は、想像以上に厳しいものだった。


礼儀作法はもちろん、衣服の扱い、食事の配膳、部屋の清掃、すべてが規律と速さを求められる。

けれど、それが救いでもあった。

忙しさに追われていれば、悲しみに沈む暇もない。思い出に呑まれずに済んだ。


ロズベルグ伯爵家とは、一切の関わりを絶って過ごすことができた。

後に聞いた話だが、公爵様が話をつけてくださったのだという。


──アデル・ロズベルグとして、身を潜める必要はない。堂々と胸を張って生きればいい。

そう言ってくださったそうだ。


意外なことに、私の給金は侍女としては破格だった。

おそらく、伯爵令嬢としての立場や教育を加味してくださってのことだろう。

「そのぶん、しっかり働いてもらいますよ」という無言の圧を背に感じながらも、私は感謝を胸に働いた。


ノルデレスト伯爵夫妻へは、定期的に手紙を送っていた。

公爵家を紹介してくださった感謝と、充実した日々の報告。

そして──ふとした瞬間に思い出す、フェルディオン様のことも。


彼と一緒に食べたお菓子の香り。

夜空を見上げるたびに甦る、ふたりで見上げた星々。

なんでもない日に、突然贈られた一輪の花。

そのどれもが、私の中で色濃く息づいていた。


あまりにたくさんの記憶が、私という人間を構成していた。

だから、一人で抱えるにはあまりに重すぎて──

申し訳ないと思いながらも、その想いを手紙に忍ばせた。


そしてあるとき、ノルデレスト伯爵夫妻が、公爵家の避暑地に訪れる機会があった。

その時期に合わせて、私は休暇を申請した。


久しぶりにお会いした夫妻は、変わらず私を温かく迎えてくださった。

まるで実の娘のように接してくださり、私は胸が熱くなるのを感じた。

彼の話ができることが、何よりも嬉しかった。

ときおり涙がこぼれてしまっても、夫妻は静かにそばにいてくださった。


帰り際、伯爵夫人が一つの包みを私に手渡した。

中には、数冊の古びた日記帳が収められていた。


「フェルディオンが、幼い頃から書き溜めていたものです。渡していいものか悩みましたが……きっと、あなたなら」


私の心が、彼を思い続けて生きていくと、そう確信してくださったのだという。

私は、深く頭を下げてその日記を受け取った。


寮に戻った夜、私はひとり静かにページをめくった。


懐かしい──彼の筆跡。

幼い頃の文字は角ばって不器用で、それがだんだんと整っていく様に、彼の努力家な一面を思い出して微笑んだ。


あるページに目が止まった。

婚約するずっと前、近隣の貴族の子供たちとのお茶会について記された項だった。


「とても気になる子を見つけた。彼女は──」

そこには、私のことが書かれていた。


お披露目会の後も、彼は何度も私を思い出しては、日記に記していた。

そして、婚約者を選ぶと両親に告げられた時、彼は迷うことなく「アデル」と答えたという。


──彼の初恋は、私だった。


私はてっきり、政略のための婚約だと思っていた。

けれど、彼にとっては最初から違ったのだ。

最初から、私は“選ばれて”いた。


涙が止まらなかった。

ページをめくることができず、私は左手をそっと握りしめた。


そこには、ふたりの約束が刻まれた指輪がある。

それが、彼と今もつながっている証だった。


翌朝、泣き腫らした顔を同僚に心配された。

けれど、私の心はどこか、晴れやかだった。


それからも、彼の日記を少しずつ読み進めている。

もちろん、涙を流しても大丈夫な、休日の前日に。


読むたびに、胸が痛み、そして温かくなる。

彼がどれほど私を愛してくれていたか──

それを知るたびに、私はまた、彼と共に生きていける気がする。


彼は、私の中に生きている。

私はこれからも、ずっと彼とともに、生きていく。


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